大丈夫。

春に中1になった娘がいる。が、今、学校に行けていない。

よくある卒業文集の人気者ランキングで、ぶっちぎり1位だったという娘。小学校の先生にも、「この先も人間関係で悩む事はないだろう」と太鼓判をおされた。出しゃばらず、でもリーダーシップもあって、勉強も出来、いつでも周りに何重にも友達がいると。
母からすると、うちの娘がそんなに皆に慕われていることが驚きではあったけど、私に見せている顔と学校でのあの子は違うんだなぁと素直に嬉しかった。

そんな娘が、中学生になったある日、突然幽霊の様な顔をして「友だちなんて、いらない。疲れた、1人になりたい」と泣き、そのまま学校に行けなくなった。
自分の日記のページをゴミ箱に捨てていた。死にたいと、SNSに書き込んでいたのを見てしまった。
今はそんな子が沢山いると私も娘自身も知っている。焦る必要はないと分かっているし、学校も娘を急かすことは無い。私は娘を愛してるし、娘も私が大好きなのがわかる。だから、大丈夫。大丈夫。そう今は呪文のように唱えているところ。


私は、ものすごく田舎の山の中で育った。原野のなかにぽつんとある家で隣家まで1キロほどあり、遊び相手は2歳年下の弟と山と川だけ。生活は極めてシンプルで、それで事足りていたし、幸せだった。
それでも、自然は時に恐ろしい顔も見せる。山道はどこを向いても同じ表情をしていて何度も迷いかけたし、川は命を奪うほど深いところが急に現れる。隣の牧場の牛が熊に襲われる。飼っていたウサギが野狐に無残に喰い殺される。生と死を隔てる淵は柔らかくて脆く、気を抜くといつでも転げ落ちかねないと、生活の中で繰り返し肌で感じる。自分がその淵にいると肌を粟立てる経験を繰り返して危険への感受性を養う。
方や私の子供たちはどうだろう。車の往来の激しい道路、刃物を隠し持つ大人、『不審者』という漠然とした存在。それは曖昧で実感を伴わない。死が痛く、苦しい、グロテスクなものだという当たり前のことがリアルに感じられていない。リアルに感じられていないからこそ、ある日簡単に柔らかな淵を乗り越えてしまうのではないかという想像が私の頭から離れなくなる。

私が買った、海獣の子供の映画原作を、私より先に娘が読破して、難しかったけど、面白かった、と言っていた。先程私もやっと読み終えた。生と死は背中合わせの同じもの、死は新しい命の始まり。私たちは何も知らないし、一生を費やしても世界を、砂浜の1粒の砂程も知ることはないという、生命や人生に対するメタ的視点と哲学は、彼女の何かを少し変えたかな。

娘が苦しむ姿を通して、中学時代の自分も、苦しかったのを急に思い出した。はっきりと何かあったわけではないのに、これから大人になるまで気が遠くなるほど長いなと、その道のりを想像してうんざりしていた気がする。世の中にはこどもの手に入らないものが多すぎる。大人が嫌いなのに、何も出来ないどこにも1人でいけない自分も嫌いで、何もかもどうでもいいと放り出したくなる気持ちを味わったことがあった。そこは微かに死の匂いがした気がする。底が見えない海底を目指して潜る恐ろしさ、どちらに顔を向けても同じ場所のような深い森の中に迷い込んだ心細さに似た感情。そこにある匂いは全部嗅いだ事があるんだ、お母さんも。わかるよ、と娘を通して自分の幼い背中をさすっている。きっと、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
隙間 : 米津玄師 公式ブログ 深夜にはなんとなく許しの空気があって、それが好きでよく夜更かしをする。コンビニや飲み屋には気だるさが漂っていて、客にも店員にもほとんど温度がない。社会の機能が鈍り、スロウになった歯車の隙間をするりと通り抜けて、どっかの知らない校庭に忍び込み、夜露で濡れた lineblog.me

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?