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映画25「MINAMATA」


名前と写真は知ってたユージーン・スミス。


同僚が「國村隼が良かった。普通に面白かったですよ」と言うので
そういえば見たい映画だったぞと思い出して
ごそごそ見始めた。
ジョニー・デップなので、不安もなく。
國村隼はすごく良かった。

私は写真を撮る趣味はなくて、
せいぜいiPhoneで、何かをぱしゃりと撮る程度。
東京都写真美術館には年に1回は行くかな、という程度。

文章を書くことも、生業としてやっているわけでもない。
いかに描写を細かく書いても情景が思い浮かぶというものでもない。
例えば俳句。
細かく書くほど字数もない。
だけど鮮やかに思い浮かぶときもある。

写真だって、多分そうなんだろう。
そこにあるものを、魂を込めて、何も入らないように撮る、みたいな。
そこに何もないからこそ、見る人の心にまっすぐに差し込むようなこと。
撮影者の過剰なメッセージをそこに載せてしまえば
途端に陳腐なゴシップ写真になってしまうってこと、あるのかな。
分からないけど。
狙って撮る、みたいなことがないように。
何の思惑もないものになって自分というレンズに
光を通していくことができる人の写真が後世に残るのかな。

報道カメラマンの写真としては、かも。
あとは対象への愛が溢れる写真が私は好きで、
「ああ、この人(もの)のこと大好きなんだな」というのが伝わる写真をたまに見る。
上手に撮ろうとかじゃなく、やっぱりそこには意図もなく、愛だけがあるような。
愛に光を通せる人。

有名な入浴写真が西洋の人にドカンとインパクトを与えられたのは、構図がピエタだったからだと
今更気づいた。

そしてあの写真には、透徹と愛の両方がある気がした。

そんな写真の訴求力。
力強さ。
ちゃんと心に届くのだ。

文字じゃなく画像だから、だけでは全くないのである。
文字でも届くし映像でも届くし画像でも届く。
届くものしか、届かない。
届くものだけが、届く。
それを作り上げられる才能は、やはり稀であるのだ。


そして「一眼レフほしーい!」となる単純な私なのだった。
私も上手に撮れたりするかしら何か一攫千金みたいなことがるかしら。
そんな黒い私も映し出してしまうのね、ユージン・スミス(違う)。

病気のこと、社会のこと、
いろんな意味も込めて、観てほしい。

おしまい。


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