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弱者も強者も何故か陥る寛容のパラドックス

性別という概念自体を無くしてしまおうという主張は、反トランス、それに対するカウンターのどちらの立場からも見られるけど、私は全く賛同できません。

男女二元な性別に自分を当てて、自分を見出せる人もいれば、当てはめない人もいるわけで、なぜ、実存するどちらかだけ拾い上げようとするの?

これまで当てはまらない人をいないものにしてきたし、一方で当てはまらない人はいないものにされてきたわけでしょ?

これまで大きな顔をしてきた当てはめられた側の人たちを消してしまえ!みたいな極論対極論のマジョリティ対マイノリティの構図を見ると悲しくなります。

それでは、必ずだれかがこの先も透明にされ続けるだけじゃない?

多様性を真っ向から否定してるやん!としか。

性別という概念に、肯定的であれ否定的であれ、自分がどちらなら落とし込めるかって事が大切で、その結果を周りから社会から尊重される事が大切なのではないの?

自分にはない在り方を、無くしてしまえというのは、多様性の反対でしかないと思いますけどね。

性別に限った話ではなくて、色んな事柄で感じられる事だけど、世の中にはさまざまな人がいて、さまざまな答えがあるんですよ。

一人の答えだけが認められて、その隣で認められなかった人がいて、その認められなかった人は、この先どうなるのでしょうか?

今後、そんな人の人生はどうなるのでしょうか?

これまで認められなかった人は、これまでどうだったのでしょうか?

自分にない在り方の人と関わるのは、簡単な事ではありませんよ。

めんどくさいと感じることも、沢山ありますよ。

だから、より現実的なコミュニケーションが必要で、相手を知ることが必要なんだと思います。

人の在り方は統一できませんよ。

それを求めるのは、暴力だと思います。

#寛容のパラドックス

河上リサのホームページ

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