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俳優を憎んでいた演出家の話

芸術として演劇活動をするのか?
拍手喝采を浴びるために演劇活動をするのか?

言葉にするとその2つには大きな違いがあるように見えるけれど、結構これらがごちゃごちゃになっている人は多いと感じるし、自分自身もまだまだそうだと思います。
わからなくなりそうになるたびに、芸術を選び直せる自分でいたいです。


私の劇団はまだ活動を始めて5年目です。
劇団員も含めいろいろな俳優のみなさんと活動をさせていただきました。

この5年は「エゴとどう付き合うべきか」ということに常に悩まされ続けている5年だと感じています。
「俳優」という生き物にはどうしても非常に強いエゴがついてまわっていて、作品をつくるためにそれが大きな邪魔になっていると感じることが多かったです。
(もちろんそれは作家や演出家も同じだと思います。)


例えば、
連絡や相談をおろそかにされる時。
公演を運営する上での約束を守ってもらえない時。
舞台上の相手役ではなく客席にアピールするような芝居。
役ではなく自分の可愛さ/かっこよさ/おもしろさを誇示するための芝居。
台本の意味や意図ではなく自分の都合や好みを優先し、決して譲らない時。

そういう時、私は、私が死に物狂いで立ち上げた公演や、精魂こめて書いた脚本を「利用され」、時には「犯されて」いるように感じます。
最近は演出家によるパワハラなどが大きく取り沙汰されていますが、作家や演出家もこうした危険に常に晒される存在であるということもまた、広く認識されるべきことだと考えています。

もちろんパワハラは悪です。
しかし、作品を「利用され」「犯され」続けた人間が鬼になってしまうことはごく自然なことだとも思います。

そうした悲劇を生まないためには「なにをもって美しいとし、どこをどのように目指すのか」についての価値観を共有できる状態にならなければ、決して一緒に作品を創ろうとしないことが必要なのだと思います。
まずはもっと一人一人がそうした価値観に自覚的であるべきなのではないでしょうか。
少なくとも私にはそれが足りませんでした。

決してこれまで私の劇団の体制が完璧だったことはありません。
参加する俳優には、協力や我慢を強いる場面が少なからずあったと思います。
もっともっと完璧に準備し、お迎えする体制を整えよと言われればその通りです。
ですので自分が100%被害者だというつもりは全くありません。


しかし、
私はもう少しで鬼になりそうでした。
半分なっていたかもしれません。
俳優が本当に本当に信用できませんでした。
実は憎んですらいました。

でも、素晴らしい師と仲間のおかげで俳優への敬意と感謝を取り戻すことができました。
その時のことについてもまた別の機会に書きたいと思っています。






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