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西からの小包

恒例のベルリン郷土史勉強会で、再びベルリン在住の方々から思い出話を聞いてきました。テーマは「西からの小包」。ほんわかした話で心癒されると思いきや、結局、今も昔も国民は国家のイデオロギーに翻弄され続けてきたのだと思い知らされることになりました。大変興味深いエピソードが聞けましたので、紹介させてください。

 まず、「西からの小包」とは何だったのか、歴史的な背景を踏まえながら、簡単に説明します。

 1961年のベルリンの壁の建設によって、東ドイツ人は西ドイツの家族、親戚、友人を訪問することが出来なくなったため、西ドイツ人は東ドイツに小包を送り続けていました。これを東ドイツ人はWestpaket(西からの小包 )と呼びました。

 西ドイツ政府が国家のイデオロギーからこれを奨励していたことが、当時の国民に配布されたビラからもうかがい知ることが出来ます。

「再統一のために私たちが個人でこれ以上貢献できることは他にありません。確かに世界の政治情勢が許す前に、統一を強行することは出来ません。しかし、私たちドイツ国民が心理的にバラバラになるのを防ぐことは可能です。もしこれを遂行しなければ、再統一という願いは、世界、私たち自身、そして何よりも東側にいる同胞にとっても、非現実的なものとなってしまいます。私たちは常に彼らのことを考えていること、彼らの立場に立っていること、そして彼らに喜びを与えたいと願っていることを、できるだけ頻繁に証明する必要があるのです。グレーな日常にちょっとした彩りを与えてくれることを、彼らは望んでいるはずです」

 こうして毎年約2500万個の小包が東西ドイツの国境を通過していました。送料は無税、1978年当時の小包一個の東ドイツでの平均価値価格は197(東ドイツ)マルク、当時の東ドイツの平均月収が800(東ドイツ)マルクですから、大変贅沢な贈り物だったと言えます。壁が崩壊する前年の1988年には、西から東へ1300万足のストッキング、1300万個の石鹸、1万1000トンのコーヒー、9000トンのチョコレートが送られています。当然、小包は手元に届く前にすべてチェックされ、禁止された物品は没収されました。チェックに時間がかかったため、クリスマスの時期などは手元に届くまでに一ヶ月かかったそうです。しかし、東独だけではなく、西独の諜報機関も、外国エージェントやスパイの正体を暴くという名目で、数千個の小包を開けて調べていたことがわかっています。

 今回、西からの小包が実際にどのようなものだったのか、旧東独で暮らした方々の声を聞くことができました。

①女性、1955年生まれ、東ベルリン
ブレーメン(西ドイツ)に住む母の兄、つまり私の叔父から毎年、母の誕生日、復活祭、クリスマスの三回小包が届いた。小包を開けるときは両親も私たち三人の子供たちも大興奮で、ワクワクしながら箱の置いてあるテーブルを囲んだものだ。箱はいつも茶色い紙で包装され、紐で縛ってあったが、紐をハサミで切るなんてことは東独人はしなかった。きれいにほどいて再利用するからだ。包装紙も同じだ。破れないように丁寧に剥がして、必ず保管する。箱の中から物が出てくるたびに私たちは歓声をあげた。何と言っても素晴らしかったのはチョコレートだ。東独のザラザラした舌触りのカカオの少ないチョコレートとは違う、本物の滑らかなカカオたっぷりのチョコレート!私たちはチョコレートの美しい包み紙も絶対に捨てなかった。それは東独にはない綺麗な色、華やかな西側の色でピカピカに光っている。叔父のところには私より5歳上の女の子がいたので、古着をすべて送ってくれた。東独の服は色もデザインも野暮ったかったが、西独のワンピースの色、布の素材、デザイン、すべてが完璧だった。「西の服」を着て学校に行くと、クラスの女の子たちが寄って来て、とても羨ましがった。西側に親戚がいることはとてつもなく幸運なことだった。東西ドイツが統一して自由に外国旅行が出来るようになってから、私は発展途上国に行くときは必ずお菓子や文房具をたくさん持っていく。現地の子供達がどんなに喜ぶかを知っているからだ。

②女性、1944年生まれ、東ベルリン西ベルリンの叔母から定期的に小包が届いたが、内容物リストにあるものがすべて入っているわけではなかった。カセットテープはすべて没収された。それはただの童謡だったのに、録音物は有無を言わさず没収だった。カレンダーも没収された。その理由のメモ書きが添えられていた。薬局の名前や住所が記されているから、ただそれだけだった。悔しかったが、それでもバービー人形やゲームにはしゃいでいる子供たちを見るのは幸せだった。

③女性、1960年生まれ、ライプツィヒ(東独)シュトゥットガルト(西独)の叔母から定期的に小包が届いた。私たちが綺麗な包装紙を欲しがっていることを知っていた叔母は、美しい包装紙でひとつひとつ包装してくれた。ボールペン一本でも。チョコレート、グミ、きれいなノート、洋服などに歓喜した。両親にはコーヒー、焼いたケーキの下に敷く綺麗なレースペーパー、石鹸、アフターシェイブ、香水、ニベアクリーム、オレンジ、レモンなど。家の中が「西の匂い」でいっぱいになって、家族みんなご機嫌だった。

④男性、1953年生まれ、東ベルリン禁止されているのにも拘らず、ミュンヘンに住む叔父はコーヒーの袋の下にお金を隠して送ってくれた。没収されることはなく、私は礼状に「コーヒーの美味しさは格別だった。愛をありがとう」と書いた。検閲を恐れたからだ。叔父は「喜んでくれて嬉しいよ」と返事をくれた。でも一番うれしかったのはリーバイスのジーンズだった。ジーンズは西の象徴だ。かっこいい自分をショーウィンドウに映して、しばらく楽しんだ。

⑤①と同じ女性。
母は母の兄(西独の叔父)夫婦に何とかしてお返しをしたいと工夫していた。クリスマスには叔父が送ってくれたオレンジやレモンの皮で作った砂糖漬けを入れて焼いたドレスデン風シュトレンを、エルツ山脈の有名な木工工芸品の小さな天使を毎年ひとつだけ小包に入れていた。楽器を持った天使たちのコレクションは、かわいい天使のオーケストラになるのだ。くるみ割り人形やアーチ形の蝋燭立も喜ばれた。しかし、他に東独から送ることのできる「特別な物」はほとんどない。マイセンの磁器やカールツァイスの双眼鏡は素晴らしいけれど、東独政府は輸出を禁止していた。ある日、叔父の法学部学生の息子が「マルクス全集を送ってほしい」と手紙を送ってきたので、母は古本屋に行って十冊以上あるマルクス全集を買ってきた。大変高価なものだったが、マルクス全集を箱に詰める母はなんだか嬉しそうだった。私の家族の中でマルクスを読んだ者はひとりもいなかった。

⑥男性、1955年生まれ、東ベルリン
キール(西独)の叔父夫婦が送ってくれた小包の中で一番感動したのはパイナップルの缶詰だった。こんなに美味しいものが世の中にあるのかと思った。缶を開けて、少しずつ家族で分け合って食べ、汁も少しずつ飲んだ。もっと送ってほしいと叔父に言ってくれと母に頼んだけれど、そんな物乞いみたいなことは絶対にしないと断固として頼まなかった。物乞いだっていいじゃないかと思ったが、それ以上は言わなかった。

⑦①と同じ女性
西から送られてくる高級ストッキングは素晴らしかった。幸い母はナイロンストッキングを履かなかったので、私がすべてもらうことが出来た。ストッキングの質も素晴らしかったが、包装の外箱は東のものとは全く違う美しいものだった。美しい女性の足が写っていたのだ。外箱を本棚に並べて眺めるのは幸せだったし、ストッキングを履いた私の足も特別美しいように感じた。

⑧女性、1950年生まれ、ワイマール(東独)
小包には雑誌、新聞、カタログなどを入れるのは禁止されていたけれど、西から訪問してきた親戚が、こっそりカタログ雑誌「クヴェッレ」を持ってきてくれた。私はまだ二十代で、家具、電化製品、洋服、アクセサリーすべてが美しく、友人たちとこれがほしい、あれもほしいと一緒に見たものだ。翌年、恋人と結婚することになり、母は西に住む叔母に頼んで白い生地を送ってもらった。薄手の素晴らしい光沢のあるタフタ、綿菓子みたいに軽いヴェール用のチュールが届いたとき、あまりの美しさに叫んでしまった。大切にとっておいたカタログの中からお気に入りのドレスを裁縫の得意な母の友人に見せると、叔母の送ってくれた布でその通りに作ってくれた。それは天才的な芸術作品だった。完成したウエディングドレスとヴェールを付けて花婿の前に立つと、彼は「なんて綺麗なんだ」と涙を流した。

当時の西ドイツのプロパガンダポスター



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