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時の彼方で ~第5章・奈津美(なつみ)~

はあ。今日も疲れたな。新しいプロジェクトの資料も作成しなきゃいけないし、明日の会議の内容も確認しておかなきゃ。でも、前に比べれば新人もだいぶ育ってきてくれたし、私も仕事がやりやすくなってきたかな。今は家に帰れば、可愛いペットもいるしね。


「ただいま。あー、疲れた」
『あ、奈津美さん!お帰りなさい。お仕事お疲れ様でした。今日は奈津美さんの好きなラザニアを作ったよ』
「ホント?ありがとう。あなたの作ってくれる食事は、何でも美味しいから。お腹ぺこぺこ。手を洗ってくるわね」
『うん。バッグと上着、かして』

身長は大きいくせに、意外とちょこまかと動いて気が利く。栗色の軽くパーマがかかった柔らかい髪。ダークブラウンの大きな瞳に、厚めの唇。鼻筋が通っていて、一般的に見てもかなりのイケメンだ。彼を「拾った」のは3ヶ月前の土曜日。会社の後輩と飲みに行った帰り道、ふと1人で寄った小さなバーに彼はいた。

『いらっしゃいませ』
落ち着いた声でカウンターの向こうから迎えてくれた彼は、薄暗い灯りの中でもアイドルのように格好良いのが分かった。

『何になさいますか?』
「えっと…私、お酒は好きなんだけど、あまり詳しくないの。何か選んでもらえる?」
『かしこまりました。どんな種類のお酒がお好きですか?』
「んー、ワインが好きかな」
『では、あなたの気品高いイメージからキール・ロワイヤルを』
「キール・ロワイヤル。聞いたことあるけど、飲んだことないかも」

彼は慣れた手つきで、シャンペンを開けるとシェイカーに美しいワインレッドの液体を注ぎいれた。

「それなあに?」
『こちらはカシス・リキュールになります』
そう言ってシャカシャカと縦に振ったかと思うと、細身の華奢なグラスに中身を移す。

『どうぞ』
「キレイね。ありがとう」

私は目の前のイケメン君が作ってくれた、私のイメージだというキール・ロワイヤルを一気に飲み干してしまった。カクテルだし、バーだし、普段そんな飲み方をする方じゃない。なのに、緊張していたのだろうか。

「もう1杯ちょうだい」
『かしこまりました』

彼の細く長い指が、銀色のシェイカーを巧みに振る。それをぜひもう1度見てみたかったのだ。

「ね、あなたいくつなの?ずい分若く見えるけど」
『25です』

25歳…。私より10歳も年下か。どうりで肌も指もキレイなわけだ。でも、25歳の割には、もう少し大人っぽく見える。服装のせいだろうか。

その後も、私は彼を独り占めしたくて、大して飲めもしないお酒を立て続けに何杯か飲んだ。私の隣にいた人が何度か入れ替わり、彼も交えて楽しい会話をしながら閉店まで居座ってしまった。こんなに飲んだのはいつ以来だったか。楽しいお酒もたまには良いもんだ。私は気分が良くなり、お会計を済ませるとフラフラと出口に向かったが、やはり飲み過ぎたのだ。オブジェに脚を引っ掛け、その場に倒れこんだ。

『あ!お客様!大丈夫ですか?』
彼が素早く駆け寄って来てくれたが、私は恥ずかしさから彼の手を撥ね退け
「大丈夫、大丈夫。ちょっと飲み過ぎちゃったみたいね」とおどけて見せた。

まだ全然正常だというところを見せようと、素早く立とうとしたら足を捻っている事に気がついた。

「痛っ!」
よく見たらヒールも片方折れていた。
『ああ…これでは歩けませんね。靴屋ももうこの時間ではやってないし』
「大丈夫よ。一駅だからタクシーで帰れるし」
『でも、その脚では…』

彼はお店の奥からサンダルを持ってくると私に履かせてくれた。彼の細くきれいな指が私の脚に触れる。私は久しぶりに胸が高鳴り、昂揚していくのが自分でもハッきりとわかった。店の中が薄暗くて良かった。顔が赤くなったのを見られなくて済む。

『お近くでしたら送って行きますよ。大分お飲みになってらっしゃるし。ちょっと待っててください。着替えてきますから』

彼が送ってくれる?家まで?そういう時の「女子」の頭はフル回転で働く。部屋、片付けてあったかな?洗濯物を干してなかったかしら?コーヒーとか飲み物…あ、仕事終わりだからビールとかあった方が良いかな。近所のコンビニに寄っていこうか。数分の間に、私の頭の中は彼が泊まっていく事まで考えていた。歯ブラシ、パジャマ、朝食…。後から考えたら、我ながら妄想が過ぎると思ったが。

彼はタクシーでマンションの前まで来ると、一緒に降りてバッグと壊れた靴を持ったまま、玄関まで送ってくれた。
『脚、後で冷やしてくださいね。お大事に』
そのまま彼は背中を向けてしまったので、思わず私は声を掛けた。
「ね、時間あったらコーヒーでも飲んでいかない?」
『えっ?』

大胆かつ無謀な行動を起こしたものだ。今日初めて出会った、10歳も年下のアイドルみたいなイケメン君を部屋に連れこもうだなんて!でも、逃したくなかったのだ。何もなくても構わない。あ、いや。ないのは当たり前だけど…。ただ彼が私の入れたコーヒーをあの細く美しい指で持ち、官能的な唇で飲み込むところを見たかったのだ。最初で最後の1回きりでも!

彼は一瞬、躊躇したがすぐに爽やかな笑顔を向けた。
『本当は、こういうことイケないんですけど』

その後の事は、あまり良く覚えていない。疲れていた上にカクテルをがぶ飲みし、脚を捻挫してイケメン君を連れ込み、コーヒーを入れて…。

卵焼きやトーストの美味しそうな匂いで目を覚ました。昨晩のイケメン君が、私の家のキッチンに立って料理をしていた。
『おはようございます、奈津美さん』
「おはよ…ええっ!」

私は、ほぼ全裸だった!これはマズイ!まさかと思うけど…「いたした」のか?このイケメン君と?あの細く長い指が…あの唇が…!待て待て、奈津美。しっかりしろ。いくら酔ってたって、根こそぎ忘れちゃうほど泥酔はしてないはず。体感くらい残ってるはず…。

『すみません。昨日あの後、奈津美さん戻しちゃったので、服は洗濯しておきました』

まさかの展開…いや、当たり前すぎる展開か。でも、じゃあ!見られちゃったってこと?このおばさん体型を?あああ。あまりにも不覚。いくらなんでも35歳にもなって、こんな若い男の子に「いたす」前に裸を見られ、後始末までやってもらっちゃうなんて。もう顔向けできない。しかも初対面だったのに。しかし、彼はそんな私の気持ちを知ってか知らずか、ホテルの朝食のような食事を用意し、涼しげな顔で食べ始めた。それが私達の始まりだった。

彼は、役者を目指していて、普通のバイトだとオーディションに行けないからと、夜の仕事に就いていた。定期的に働けないので収入もギリギリだ。私は独身で、それなりに給料ももらっている。このマンションも1人暮らしには広すぎるくらいだったので、すぐに同居を勧めてみた。案の定、彼は喜んで承諾してくれた。彼は飲食業のバイトを転々としていたせいか、料理がとても上手だった。私はどちらかと言うと苦手な方だったので、専業主婦ならぬ専業主夫を買って出てくれた。美味しい食事とキレイに整頓された部屋に毎日帰ってくるのが楽しみになった。

彼は猫のように気まぐれでしなやかで。オーディションの前は、台詞覚えでピリピリしていたけれど、普段は優しくて甘えん坊で、それが可愛くて心地良かった。バーテンダーをしている時の彼と、普段私に見せる素顔は全く違う。最初の印象は、歳より大人っぽいと思っていたけれど、実際はとても少年っぽかった。私は毎日、彼のために一生懸命働いた。彼の稽古代やオーディションに通う交通費、事務所に払う月謝などなど。もちろん生活費も私が全て支払った。

彼は申し訳なさそうにしていたけど、家事をやってくれていたし、何よりも彼と一緒にいられることが私にとっては幸せだったのだ。毎晩、彼の腕に抱かれて眠る安心感。朝早く目覚めた時に、隣に横たわる若く美しい肢体。けだるそうに私の名前を呼び、身体を引き寄せ、その整った顔を近づける。私は毎日彼を見るたびに惹かれていき、彼に触れるたびに気持ちが昂揚した。

しかし、そんなまったりとした幸せは長くは続かなかった。


『奈津美さん!受かった!オーディション受かったよ!』
彼が息を弾ませ、帰宅した。有名どころが何人も出るような、大きなドラマのオーディション。彼は主演女優の恋人役をゲットしたのだ!

「ホントに?本当に受かったの?おめでとう!」
素直に嬉しかった。彼の実力が認められたのだ。私に抱きつき子供のようにはしゃぐ彼が可愛かった。

「お祝いしなくちゃね。ホテルのスイートとレストランを予約しなくちゃ」
夏のボーナスが丸々入るので、ちょっと贅沢だがそのくらい良いだろう。他に使い道もないし。「私の」彼が、全国放送のドラマに出る。しかも、準主役級だ。私は嬉しくて誇らしくて舞い上がっていた。すぐにネットで高級ホテルのHPにアクセスし、予約を取ろうとした。

「ね、いつが良いかしら?私は土日、仕事が休みだから金曜日辺りにする?」
『あ…ごめん。しばらく泊りは無理かも』
「どうして?」
『出演者との顔合わせや、プロモーションのための撮影や挨拶回りがあるんだ。ご飯くらいなら行けると思うけど…泊りは無理かな』

そっか。そうだよね。ドラマが決まったら撮影に入る前に、写真撮ったり番宣とか出たりするようになるんだもんね。仕方ないか。落ち着いたら2~3泊で旅行にでも行こう。それまでは我慢しなきゃ。

それから、しばらく彼はたびたび家を空けるようになった。ドラマの撮影も始まり、ネットやテレビで彼の顔を見ることも多くなった。彼は新人だったので、人一倍努力しなきゃいけなかったし、周りは著名な役者さんばかりだから緊張してNGを出すこともあったらしい。演技はともかく、台詞は完璧に入れておかなきゃ周りに迷惑が掛かる。家にいても気が散るからと、事務所の稽古場に泊まったり、ビジネスホテルに泊まることもあった。

彼のいない部屋に帰ってくる。食事の用意もない。洗濯物が溜まっちゃった。疲れたなぁ。仕事内容も時間も同じなのに、疲れが取れない。彼の食事がないから?それとも、彼に会えないから?たった数ヶ月前はこの状況だったはずだ。1人で何でもやってきたはずなのに。淋しい。彼に逢いたい。LINEしてみようかな。この時間なら、きっとホテルにいるよね。


【撮影はどう?順調に行ってる?キミがいなくて淋しいよ】
しばらく返事はなかった。忙しいのかな。共演者の人達とご飯を食べに行ってるのかもしれない。


『奈津美さん、ごめん。しばらく連絡できない。ロケが終わって東京に戻ったら、会いに行くから。話もあるし』

話…?何の話だろう。多忙な中で連絡をくれた事は嬉しかったけれど、嫌な予感は結構当たる方だ。彼に逢いたい気持ちと、逢いたくない気持ちが交差する。時間が経つのが妙に遅く感じたり、早く感じたり。逢えない時間が何年にも感じる。仕事にも集中できなかったが、お給料をもらうためにはきちんと働かなきゃ。彼だって頑張っているんだし。でも…何の話だろう。


『奈津美さん、俺。今日、東京に帰ってきたんだけど会えるかな』
「久しぶり!逢いたかった。今日は泊まっていけるんでしょ?何か食べに行こうか?」
『…ごめん。その事なんだけど…とりあえず、予約取ってる所があるから、そこで待ち合わせしよう。奈津美さんの名前で取ってあるので、先に行ってて。19時に。場所の地図をLINEに送っておくから』
「あ…うん」

LINEが送られてきた。結構、有名なレストランだ。え?もしかして、2人きりでお祝い?まさか彼が予約してくれるなんて。2人でお祝いしようって言ったの覚えてくれていたんだ!嬉しい。私の思い過ごしだったんだ。すぐ悪い方に考えちゃう、いけないクセ。何を着ていこう?この間買ったワンピ、ちょっと若く見えるかな。あれなら彼と釣り合うかしら?メイクもちょっと若々しくして行こう。今をときめく若手俳優の彼女だもん。スクープでもされた時に、変な格好してたら彼が恥ずかしい思いをするし。でも、他人のフリをした方が良いのかな。カメラを向けられたらサッと離れたりして。恋人ですかって聞かれたら、何て答えよう?一緒に住んでるなんて言っちゃダメだよね。

そんな事をあれこれ考えながら、待ち合わせ場所に向かった。通されたのは個室だった。すごい!ちょっと逢わない間に、こんなに出世したの?まさか…ここでプロポーズ?どうしよう。

【俺、まだ半人前だけど、ドラマも決まって役者でやっていく決心がついたんだ。奈津美さんにはずっと支えてもらってきた。これからも俺を側で支えて欲しい。結婚してください】

彼はちょっと照れて、小さな箱を渡してくれるだろう。安物でも全然構わない。彼と一緒にいられれば、豪華な指輪も華やかな結婚式も要らない。


『奈津美さん、お待たせ】
ちょっと見ない間に彼はとても精悍な顔立ちになっていた。元々イケメンだったけれど、俳優としても自信がついたのか、オーラが違って見えた。こんなに格好良くなった彼といよいよ。私は胸の高鳴りを抑えられなかった。

彼は、普段と特別変わった様子もなく、ドラマが決まったお祝いの乾杯と、フルコースの食事を楽しげに済ませた。そっか。食事が済んでからゆっくりとプロポーズなんだね。私はその時を今か今かと待っていた。


『奈津美さん、話があるんだ』
来たっ!こんな時、どんな風に待っていたら良いんだろう。



『俺と別れて欲しい』
えっ?


『事務所から言われてるんだ。俺、これから売り出すのでスキャンダルはご法度なんだよ。同棲も解消させてください。今まで支えてくれてありがとうございました。ここは俺からのお礼です』

彼は淡々と表情も変えずにそう言うと、軽く頭を下げた。
『俺達のそれぞれの未来に乾杯!』
ワイングラスを待つ、彼の長くキレイな指だけをハッキリと覚えていた。

店を出ると、彼は他人行儀に私の苗字を呼んで
『今日はありがとうございました。お世話になりました。今後ともよろしくお願い致します』
と、わざとらしく大きめの声で挨拶した。関係者との食事会だと装いたかったのだろう。すぐに彼と気づいた数人の若い女の子達が近寄ってきた。私にうやうやしく会釈をすると、サインや写真撮影に応じ始めた彼に、私は背を向け歩き出した。

彼がタクシーを呼んでくれると言っていたけれど、歩いて帰りたかった。タクシーの中で号泣なんてしたくなかったから。大声で泣きたい気持ちをぐっと抑えながら歩いていたら、彼からLINEが来た。


【奈津美さん、今までありがとう。俺はずっと奈津美さんが好きだよ。俺はまだまだ駆け出しで、半人前なので奈津美さんを幸せにすることが出来ない。でも、いつか俺がもっと立派で有名な役者になったら…その時は、きっと迎えに行くから】

最後まで「役者」なのね、キミは。前よりずっと嘘が上手くなった。嘘と言うより演技なのかな。あなたが有名になる頃には、私はすっかりおばさんで、あなたは押しも押されぬ中堅の俳優になっているのだろう。たくさんのファンと、美しい女優さん達に囲まれて、私の事なんて思い出すこともない世界で…。

それでも…私はあなたのことを忘れる事はない。この言葉をお守りにして生きていく。仕事も今以上にバリバリ頑張って、あなたのスポンサーになれるくらいにのし上がるわ。お局様と呼ばれようが、いかず後家と言われようが構わない。

いつか、本当に私の夢が叶う時が来たら…。その時のために、美容にも健康にも気を配ろう。10年経ってもキレイだと言われるように。いつか、あなたと時を越えて結ばれる日が来るまで。時の彼方で、またあなたと逢える時まで。

頑張ってね。ずっと応援してる。私はあなたの1番目のファンだから。これから先、結ばれることがなくても…ずっとずっとあなたのファン第1号だから。

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