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「呪われた夢」(Y Y)

先日金曜ロードショーで宮崎駿監督の「風立ちぬ」をやっていて、娘たちが見ていたので一緒に見た。映画館でも見たので2回目だったが、あまり覚えていなかったので新鮮な思いで見た。


「空を飛びたいという人類の夢は、呪われた夢でもある」

映画の中で、この「呪われた夢」というフレーズが何度か出てくる。殺戮と破壊の道具になるということが分かっていながら、主人公の二郎は美しい飛行機を作りたいという夢に妥協することなく生きていく。

現実的な視点から見れば、国のため・技術の進歩のためという大義の裏にある、戦争と殺戮への加担という側面に気づきながら、それでも飛行機を作った、そして結果その通り、多くの人が死んでいったというのは、戦犯以外の何物でもないだろう。

しかし、本当の意味で大きな仕事をするということは、そういうことなのかもしれない。宮崎駿監督も、自分自身の映画が持つ現実的な影響力の負の面と、ただ美しい・素晴らしい映画が作りたいという「呪われた夢」との間の葛藤の中で、おそらく呪われた夢に生きるという選択をしている。作中に出てくるピラミッドの喩えもそう。

夢の中でカプローニ伯爵が、二郎に問う。
「君は、ピラミッドのある世界と、ピラミッドのない世界と、どちらが好きかね?」

ピラミッドそのものに、現実的な機能はあまりない。しかも、それをつくる過程で、おそらく多くの奴隷が苦しい労働を強いられているという意味で、ピラミッドを作るという行為は当時の現実においては必ずしも広く歓迎されるものではなかったかもしれない。しかし、それは厳然と後世に残り、しかも、美しい。

この宇宙において何か少しでも意味があることを成す、というのは、そういうことなのかもしれない。
決して、大きなことを成すためには人を苦しめても良いということではない。次郎は他者を思いやる強い感受性を持っている。だからこそそこに苦悩はある。しかし、美しい飛行機を作るという夢は、それとは違う次元の何かに繋がった、たとえ現実に生きる自らを苦しめてでも追求されねばならない何かなのである。結果として、二郎自身、そして結核で死んでいく妻の菜穂子の生き方は、美しい。
そしておそらく、二郎の成した何かは、後世の飛行機の中に生き続けていく。


実は私にも呪われた夢がある。

それは、「人間の意識を、コンピューターでシミュレートする」というもの。意識の謎の解明、と言ってもいい。
プロトタイプのイメージはすでにできていて、機械にも意識は生まれる(正確には、機械も「なぜ私には意識があるのか?」という疑問を持つようになる)という確信がある。

これまで断続的に、あるときは集中的に、あるときは仕事の合間に、この夢に取り組んできた。取り組んでいる間は、無我夢中であり、抜け出せなくなる。シャワーを浴びていても、食事中も、寝ている間もずっと考えていたりすることもある。

この夢を追いかける私と、仕事を通じてこの世界を善くしていきたい私とが、実は20歳頃からずっと自分の中に存在していた。どちらも大きな夢であり、人生をかけて取り組む価値のあるテーマだと感じていた。

仕事を通じてこの世界を善いものにかえていきたいという、もう一つの壮大なテーマが、ただの少年の無邪気な空想から、徐々に現実としての輪郭をおぼろげながらみせはじめるにつれ、このもう一方の「呪われた夢」とどう向き合うかが、自分の中でより強く問われるようになってきた。どちらも並大抵なことではない中で、両方とも中途半端ではうまくいかないのではないか。仕事を通じてできること、やりたいことが目の前にたくさんある今、もう一方の夢はいったん手放すべきなのではないか。

そして何よりも、それは「呪われた」夢なのである。人間と同じように「なぜ私には意識があるのか?機械としての私に、なぜ感覚が生じるのか?」と問うプログラムを作る。それは近代以降の人類の最大の疑問にひとつの答えを示すものであり、抗いがたく魅力的で、美しいアイデアだと感じる。しかし同時に、それは負の側面を持っている。多くの人が何よりも大切だと信じている心や魂、意識というものが、ある種実体のないものであり、機械でもシミュレート可能だと示すことで、何が起きるだろうか?今以上に刹那的で利己的な考え方を助長することにつながりはしないか。反発や否定の反応を招かないか。そして何より、これを実現したいという自分の強い衝動は、偉大なことを成し遂げて褒め称えられたいというエゴからくる欲求ではないのか。そうではないとしたら、一体誰のため、何のため、どんな大義のために実現したいというのか。もちろん大義をこじつけることはできる。しかし、いち早く実現し、誰かに先を越される前に発表しなければ!という焦りこそが、これがエゴからくる欲求であることを物語っているではないか。

そういう葛藤から、ここ3年ほど、仕事が充実して全力投球するようになるにつれ「自分のエゴではなく世の中にとって大切なのはどっちだ?」と自分に言い聞かせながら、この夢とは距離を置いてきた。


しかし瞑想をするようになり、前回の投稿(世界認識を2度裏返し、本分と領分を知る(Y Y))で書いたような意識の変化があり、いま再びこの呪われた夢に生きはじめている自分がいる。

前回書いた通り、マクロに見ればそれ自体満ち足りて不安のないこの世界の中で、ミクロな現実においては自らの領分をわきまえ本分を全うすることが大切だと理解した。そして今、「意識の謎への解を示す」のが自分でなくてもいい、誰か他の人が先に実現したならそれでもいい、と思うようになってきた。焦る必要はなく、自分が実現できてもできなくてもいい。実現されるべきアイデアであれば実現するだろうし、そうでなければ実現しないだけだ。それでいい。そして、そう思えるようになったことによって逆に、今私が繋がっているこの美しいアイデアが自分を通じて世界に具現化することに対して、やはり全力を尽くさずにはいられないと、理屈ではなくどこか奥深くからの圧倒的なエネルギーに突き動かされるような感覚とともに感じるようになった。


先に書いた通り、これは呪われた夢である。「人間の意識は実は特別な存在ではない」と証明するようなものを歓迎しない人は多いだろう。それによって不幸になる人もいるかもしれない。しかし世界を救うヒーローであるかのように全てを背負い込もうというのはおこがましい話であり、領分外である。領分の外のことを気にして本分をおろそかにするというのは間違っている。

何よりも、私たちの文明をわずかなりとも進化させる可能性があるこの夢を、そのまま棄ておくなどということは、到底できない。


そう感じるようになっていたからこそ、風立ちぬの二郎の生き方は、今の自分に深く、強く響いてきた。


まだ風は吹いている。生きようと試みつづけなければならない。


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