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自由と責任(Kazuaki Mizuchi)

小さい頃、僕の両親は僕にラグビーをさせたかったらしい。何回か社会人のラグビーの試合を観に連れて行かれたの覚えている。

中学校の部活で一番人気はサッカーだった。僕が中学校に入学した1993年はJリーグが発足した年、ドーハの悲劇の年。サッカー人気は凄まじかったので当然と言えば当然だった。

サラリーマンになって、多くの同僚がゴルフを始めた。「サラリーマンとしてゴルフくらいできないとね」と言う同僚に御徒町の中古ゴルフクラブ屋に連れて行かれたのを記憶している。

結果として、、僕はラグビーも、サッカーも、ゴルフもしなかった。

別にやってもよかった。中学校生活3年間を通して昼休み毎日サッカーをやっていてすごく楽しかったし、ゴルフも打ちっぱなしに数回行ったが楽しかった。
でもやらなかった。

どうしても好きになれない言葉として昔から胸につっかえていたのが「紳士のスポーツ」という言葉。ヨーロッパ発祥のスポーツには紳士しかやってはいけないという排他的な前提が存在しているような気がしていて、僕にはどうしても受け入れらなかった。

僕は自由の国アメリカに心酔しきっていた。アメリカ発祥のスポーツには紳士のスポーツと言われる「格式」みたいなものが存在しない。

フラットでオープンな空気感が大好きだった。


僕は小学校から高校まで約10年間バスケに青春を捧げた。夢中にボールを追っかけ、夜はNBAの試合にのめり込んだ。

ナイキのバッシュを履き、NBAのスタープレイヤーのTシャツを毎日着て登校していた。筆箱、定規、鉛筆、下敷き、、、文房具は全てシカゴブルズで統一。小学校の卒業文集には「将来はNBA選手になります!」なんて己の実力も顧みず威勢のいいことを書いていた。

時が経ち、2007年。iphoneを発表したスティーブジョブズのプレゼンに心が震えた。従来の電話の概念を覆すこの次世代の小型マシーンが世界を変える気がした。

すぐに僕は初代iphoneを買った。当時はインフラが整っておらず、東京-福岡間の新幹線の車中でガラケーからiphoneに数百件の電話帳を手打ちで入れ替えたことは今でも懐かしい。

もちろんapple製品の虜になり、出す製品全てを追っかけた。”designed in california by apple”というフレーズに心が痺れた。

グーグルも好きな会社だ。twitterもFacebookも。2010年の8月にはアカウントを作っていた。

カリフォルニアで開発されたスマホの上で、カリフォルニアで開発されたアプリの中で全てが完結する世界。便利で刺激的な世界だと思った。

2018年夏に初めて仕事でベイエリアと呼ばれる地域に行った。心が躍った。気候は最高。開放的で、死ぬほど心地よかった。カリフォルニアの太陽の下、スタンフォードのキャンパスで食べた7ドルのコブサラダと5ドルのチキンサンドの味は今でも忘れることができない。

そんなアメリカかぶれの僕の背景にあるのは「自由」という概念。この言葉を嫌いな人はいないだろうが、取り分け僕は大好きだ。

自由とはwikipediaによると「他から強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っていること」とある。

よく見ると、「自由」という言葉の定義は以下の2つの要素に分解される。

・他から強制・拘束・支配などを受けない

・自らの意思や本性に従っていること

静的な前半パートと動的な後半パート。
外部環境との関係性を規定する前半パートと、自己の内側の在り方を規定している後半パート。
ジョン・ロック的な香りが漂う前半パートと、スピノザ的な香りが漂う後半パート。
リバティな前半パートとフリーダムな後半パート。

僕の大好きな自由の国アメリカが国家として保証しているのは前半パートであり、後半パートは自己責任の世界。「意思や本性に従えるだけの素地は制度的に整えたので、あとは個人次第です」というのが自由の国アメリカの前提だと思う。

このリバタリアン的な色彩が僕は大好きだった。(建前上の)スタート地点は皆同じ。ゴールテープを一番に切れるかどうかは個人の努力次第。

個人の努力が摩擦なく成功に直結する社会。努力の歩留まりが高い社会。平等で公正だと思った。

でも、、、ふと頭をよぎった。

本当に公正か???平等か??

中学生あたりからだっただろうか、、子供から大人になりかけの時期。バス代や電車代くらいは大人料金になっていた時期。周りの大人達から言われ始めた「自由には責任が伴う」という言葉。

「自由とは何をやってもいいということじゃない。自分の行動や言動には責任が伴う」ということ。この言葉の意味、、非常によく理解できる。至極真っ当で、全く同意である。何の違和感もない。

思春期から40歳になるまで、親、教師、先輩、上司、多くの大人に何度も何度も説得力を持って言われ続けた。論理的に破綻しているところもなく「そりゃ、そうだ」と受け入れられる。

責任を伴わない自由というのは、自由というより我儘にニュアンスは近いように思う。

自由と責任の関係性について論理的には全く異論はないが、、

しかし、、、「責任」の前提を少し考えてみる必要がありそうだ。

もっというと、責任を問える前提についてだ。

この「責任」を持ち出すことが正当化される前提として、以下が担保されている必要があると思う。

・全ての選択肢の提示を受けたか?
・それぞれの選択肢につきメリット・デメリット、リスクとリターンなどの説明を受けたか?
・その説明を理解できるだけの教育の機会が提供されているか?

これが自由の裏側にある責任が問える条件だと思う。この前提が崩壊している中で責任を問うのはあまりにも酷だ。

でも、これって、現代において担保するのがそもそも無理じゃないか?

いや、、、、、そもそもこの条件を満たす前提を社会的に整えることなんてできないと思う。

が、

一昔前は、、これらの条件を満たすことができていないとしても、、
社会全体が成長していて、今日より明日がよくなると皆が思っていて、社会全体の予測可能性が高いことから、仮にベストな選択をすることはできないとしても、与えられた選択肢のどれを選択しても結果としてベターな選択ができたと皆が思えるような状況だったから、自由というものが、責任の前提が崩壊していたとしても、社会の中で有耶無耶にされながらも許容されてきたのではないだろうか。

この有耶無耶にされて礼賛されてきた「自由」。現代の文脈で捉え直すとどうだろうか??

社会は超高成長な一部の領域と低成長なその他多くの領域が明確に分かれてきていて、今日より明日がよくなると思っている人と、今日より明日が悪くなると思っている人が混在しており(さらに後者の割合がどんどん増えてきており)、社会全体の不確実性が極めて高くなってきている中で、且つ、その状況が年々指数関数的に進行していく中で有耶無耶にされてきた自由そのものに限界がきているのではなかろうか?

日々刻々と複雑さが増していく昨今の社会の中で、提示される選択肢の全容など把握できるわけないし、そもそも今日と明日で選択可能な選択肢の全体図が変わってしまうような世界では人が選択肢を判断するどころか、選択肢を網羅的に並べること自体が困難だろう。ましてや、選択肢に対する十分な説明を提供することや、その説明を理解できる教育の機会を提供することなど社会としてできるはずがない。

「責任」という十字架を背負った自由はただの「絵空事」ではないか。少なくても今の時代においては。

僕が崇拝した「自由」、僕が礼賛した「自己責任を下敷きにした世界」は「前提が崩壊した責任」が暴走し、これが人々に刃を常に突きつけ、時に攻撃的に人々を分断し、一部の人を厚遇し、その他多くの人々を隅に追いやり、世界はどんどん窮屈な場所になってきてはいないだろうか。

そんな社会(=そのように僕が認識した社会)で僕は何をするべきだろうか??

不自由な世界の中で生きる僕は自由といえるだろうか?

僕は「他から強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っている」だろうか?

この点、僕は「他から強制・拘束・支配などを受けていない」と言い切れる。根拠はない。僕がそう強く思うからだ。

自己責任の一言で片付けられる冷たくて、愛のない世界を半径5メーターから変えていきたい。それが、僕の中での自らの意思や本性に従った生き方だ。

では具体的に何をするか?

差し当たり、自己責任で試合から退出させられた愛のある起業家を全身全霊で支援すること。

理由は3つある。
社会全体の不確実性が日々増していく中で、社会の閾値がどんどん高くなっていき、事あるごとに遵守するべきルールやレギュレーションがアップデートされていく中で、全てを網羅的にキャッチアップすることは不可能であり、そのゲームの前提やルールを十分に理解できずに、うっかりやらかした人を自己責任の名の下に非難し、試合から追放するのはあまりにも酷だと思うから。これが1つ目の理由。

2つ目の理由は、「暴力的な自由」により分断された社会を再び繋げようと必死で命をかける起業家が若い方中心に非常に多く、ここに光を見るから。

3つ目の理由は、僕のバックグラウンドを考えたときに、自己責任が猛威を振るう冷たい社会に反旗を翻すことができる領域こそまさにそこだから。

そして、いつか社会全体に父性を取り戻す。

これが2021年6月時点の僕なりの自由な生き方だ。もちろんその自由には抱き合わせで前提の崩壊した責任を伴っているが、責任の前提が崩壊していることを理解した上でもそれが僕の取るべきポジションだと思っている。


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