見出し画像

ぼくには目が4つある(hm)

 ぼくには目が4つある。そのことに気がついたのはいつのことだろうか。もうずっと前のことなので曖昧だ。小学生の頃だったのか、中学生の頃だったのか。

 その目は、眼球のずっと奥の方、後頭部を突き抜けて、更に50センチくらい後ろにある。そして、そこから、腕を組んでジッと、自分と相手を眺めている。
 ぼくは、その目に気づいてから、これまでと同じように喜怒哀楽を表現できなくなった。どんなに楽しい話をしていても、“彼”に見られていることに気がつくと、自然に笑うことができない。何だか、全てが演技をしているように感じた。
 でも、ぼくだけではなかった。ある日、友人と会話をしていると、その目の奥にも、彼がいることに気がついた。楽しそうな会話をしながら、でもやっぱり目の奥の彼は笑っていなかった。笑わずにジッと、ぼくを観察している。どうやら、人間は誰でも、目が4つあるようだった。

 それから、ぼくは相手の目の奥を観察するようになった。“彼”には特徴があった。彼が観察相手を価値判断し批評した瞬間、目の奥が揺らぐのだ。その瞬間、「あぁ、今、斬られた」と感じた。

 こうやって、人に批評され斬られることに敏感になっていたぼくは、二十歳の頃にある有名な整体師の話を聞く機会を得る。どうせまた斬られるんだろう、そう思ってヤサグレていると衝撃を受けた。なんと、その先生は斬らなかったのだ。こんなことはあり得るのか、きっと気がつかなかっただけなのではないか?動揺したぼくは、先生の話を聞いて納得した。もう相当前なのだが、こんな話だった。
「整体師として、多くの人の骨格を見て、治してきました。でもある時、自分の子供をみてショックを受けたんです。なんと、自分の子供が“骨格”に見えてしまったのです。それ以来、僕は患者の骨格を見るのをやめました。その代わり、その人の“スガタ”を見るようにしてきたのです」
 そうか、先生は批評せず、ぼくの“スガタ”を見てくれたから、斬られなかったんだ。そう理解した途端、安心感で身体から一気に力が抜けるのを感じた。

 詩人の田村隆一はその詩の中で再三、“肉眼”という言葉を使っている。彼は生涯、肉眼を追い求めていたようだ。生前最後の詩集の1999には、次のような言葉がある。
 
 視力だけで生きる者には愛を経験することはできない
 生物は「物」である
 生物の本能もまた「物」である
 だが
 視力が肉眼と化したとき
 物は心に生まれ変わる たとえ
 地の果てまで旅したとしても
 視力だけでは「物」しか見えない
  (田村隆一『1999』 美しい断崖より)

 果たして、肉眼で人のスガタを見ることは可能なのだろうか。ぼくは相変わらず、二元論的な批評ばかりしていないだろうか。

 ぼうっと目の前にあるものを
 見ているとき
 その人の「見る」枠組みのようなものがある
 そこにトマトを入れる人もいるし
 他に会社の建物、故郷の山川、霜の墓地など。
 生涯、その視野は 変わらない
 他人になれる少し前に かき消してしまう
  (荒川洋治『心理』デトロイトより)

 もしそのような観察者の視点で世界を見るならそうなのだろう。でもスガタを見たいなら、肉眼という別の目を見つけないといけない。世界観をもう一段階、上げなければいけない。主客分離から相互主観へ。そこまで考えて、1年前の講座の時にはまだ届かなかったところに、指先だけかすかに引っかかったような手応えを感じた。何となく、今なら、あの時に気が付けなかったことが理解できる気がした。あぁ、もう一度、勉強し直さないといけないな。そう思った。
 なぜなら、ぼくにはあともう2つも、目があるのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?