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「ドン・キホーテ」を再読している

前回の記事で書いたように、僕はいまエンタメの小説を作りたいと思っている。しかし気持ちは鬱々としているので、楽しい小説をいきなり書くというのもむずかしい。

そこで僕は岩波文庫の「ドン・キホーテ」を再読しはじめた。自分の心を「ドン・キホーテ」的にすることで楽しい小説を書くのを容易にしよう、というわけだ。

最近読んだ箇所で面白かったのは、登場人物が偽名を忘れてしまい、それを他の人物に教えてもらう場面だ。

ドロテーアは鞍の上でいずまいを直して楽な姿勢をとると、咳ばらいをするなど、いかにも前置きといったしぐさをしたうえ、粋な調子をつけて、次のように話しはじめて――
「さて皆さん、まず何よりも前に皆さんにお知りおきいただきたいのですが、わたくしの名前は……」
 ここまで言いかけてつかえてしまったが、それは先ほど司祭が自分につけてくれた名前を失念してしまったからである。すると、そのあたりの事情を察した司祭がとっさに助け船を出して、こう言った――
「姫君、あなたがこれから話そうとする不幸を思い起こして取り乱し、気おくれなさったとしても、決して不思議ではありませんよ。そうした不幸というものは、それに苦しむ者の記憶を奪ってしまうことがよくありましてな、おのれの名前が思い出せないことさえあるんですよ。いま姫君が、ご自分が大ミコミコン王国の正統の継承者たるミコミコーナ姫であることをお忘れになったのもその場合に該当するといえるでしょう。さあ、これだけの手掛かりをさしあげれば、姫君はこれから話そうとお思いのことをすべて、そこなわれた記憶のもとに、やすやすと呼び戻すことがおできになるでしょう。」
「まったく、おっしゃるとおりです」と、悲嘆の乙女が応じた。

岩波文庫「ドン・キホーテ 前編2」

この場面は面白い。騙している相手の前でこうも大胆に嘘の助け船を出しているのが愉快だ。それと「そうした不幸というものは、それに苦しむ者の記憶を奪ってしまうことがよくありましてな」の箇所。ここはいかにも楽しい場面だが、作者の味わった艱難辛苦がかいま見える。事実、作者のセルバンテスは戦争で障害を負い、トルコに誘拐され、帰国にもそうとうな苦労を重ねたのである。僕はここにユーモアだけでない、憐れみの精神というものを読み取る。

僕もいまは不幸だ。だからセルバンテスのこうした憐憫の情には慰められている。

ちなみに、これとそっくりの場面が「ハックルベリー・フィンの冒険」にも出てくる。そこでは主人公のハックが自分で名乗った偽名を忘れてしまうのだが、なんとだました相手にそれを書かせて窮地を逃れるのだ。

以上のように、「ドン・キホーテ」は味わい深く、かつ文学の歴史や繋がりというものが学べる意義深い書である。僕はこれを教科書に小説を書いていくつもりだ。