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わたしの3.11と、8years.

もう8年。

まだ8年。

この日が来ると
頭から離れなくなる。


当時中学1年生だった私は、実家がある東松島市から学校のある仙台まで電車で通っていた。

あの日は期末試験の答案返却日で午前中に学校が終わって

思いのほか点数が良くて、ご褒美に、と思ってブックオフで立ち読みしたんだっけ。

そうやって仙台で時間つぶしてから電車に乗るために仙石線のエスカレーターを下ってた時に



揺れた。


歩きながら降りていて「なんか変だな?」と思って急いで下りきった途端に揺れ始めて

周りの人の叫び声と転がっていくスーツケースを見ながら、必死で手すりに摑まって一人堪えてた。

スプリンクラーで水浸しの駅、改札を壊しながら外へと押し寄せていく人

煙が出ているloftの傾いた看板。

どうすればいいかなんてわからなくて、バス乗り場の階段で一人うずくまってたあの日。

公衆電話の行列に並んでいるときに降ってきた雪。

祖母とも、母とも連絡がつかなくて

母の会社は古い木造で、前から「もし地震が来たら下敷きになる」と冗談交じりに話していたのを聞いていて

祖母もあの日会社に手伝いに行っていたはずだったから、もうみんな死んでしまった、となんだか冷静に考えてる自分がいたあの日。

どうしていいか分からず学校に戻って一夜を過ごした時

もらえる乾パンも、おにぎりも、カイロも

なにもかもが無味で、色がなかった。


担任の先生が、ようやく祖母と連絡が取れたって携帯を貸してくれて

母に連絡が取れない、と

あのときの祖母の震えた声は今でも忘れられない。

祖母は会社に行く道中で津波に流されたようだが、偶然、ほんとに偶然、近くを通りかかった若い男性二人に引っ張ってもらって

知らない人の家の二階に避難したらしい。

次の日も、母とは連絡が取れなかった。


その次の日の朝、新聞で巨大津波が押し寄せていたことを初めて知った。
テレビでは、原発の中継をしていた。


新聞の中の‘‘犠牲者名簿‘‘の欄を、必死に、指で追いながら読んだのを鮮明に覚えている。母の名前がないかを探すために。


でもあの時の私は何故か冷静で

誰にも負けないと言えるほどにママっこなのに、
本当に大好きなのに、

それまで涙も出なかった。

人生の底って感情がなくなるのだと、あの日知った。


そこから、同じく仙台の高校に通っていた兄と連絡がとれ、兄の友人の家で厄介になることとなったが
それからが私にとっては地獄だった。

私以外全員高校生の男子で、7人ほどいただろうか

24時間気を遣い続け、気遣われ続け、お互いに限界だったんだろう。

お手洗いから戻る時、彼らが私のことをふいに邪魔、と言っているのを聞いてしまった。

あの時の感情は、本当に 無 に近かった。

あれがあと数日長かったら、私はきっと精神が壊れていたかもしれない。


そんな中で、ようやく、ようやく、兄の携帯に母からメールが来た


生きてた。

電波が繋がらないから、行列に並んで近くのショッピングモールまできて、長文のメールを送ってきたのだった。

生きてた。

だが、私はもう限界になっていた。

泣き続けた。

それを兄が母へ連絡したのだろう、電話が来た。

たった5日ぶりに聞いた母のその声は、どんなものよりを私の心を溶かした。

心配させたくなかった。絶対に津波の被害のあった石巻の方が大変なはずだから、私のことは心配しないで、と言いたかったのに


しゃくりあげるほど泣いた。

これ以上ここにいたらだめになる、と

中学の友達の家で一泊お世話になることになった。


家を出るとき、兄は私のリュックにありったけの飲み物やお菓子を入れながら、「お前のせいじゃないよ」と、「ごめんな」と、言った。

その時、この人は家族なんだって


ほんの少しだけ、ちょっとだけ、心が軽くなった気がした。


友達の家にお世話なった翌日、小学校の時の恩師から連絡があって

うちにきなさい、と言って頂いた。

向かうと、小学校の時の友達が2人そこにいた。

少しでも安心させたいと思って呼んでくれたのだろうと、今ならその優しさがわかる。
1年ぶりに会った友達は地震なんてなかったかのように‘‘ふつう‘‘だった。
これが、多分直接"死"を感じた人間とそうじゃない人との温度差なのだろうか。

その夜、その恩師の息子さんが私を母の下へ送り届けると言ってくれた。

トラックの運転手をしている方で、ガソリンが残ってるから乗りなさい、と言ってくれた。

本当に、有り難かった。

トラックに私と、恩師と息子さんで乗り込み、石巻まで向かうその道中の景色は
信号は全て点滅信号に変わっていて

一週間前までのそこの景色とは何もかもが違っていた。

時間は深夜近かったから周りは真っ暗で

だからまだよかった、のかもしれない。

もし直接見てしまっていたら、

13歳の私の心はどうなっていただろう。
後日知ったことだが、あの時期の国道は大変な惨劇であった、とのことだった。



ようやく、母が乗る車と合流し

車を降りた途端に泣きながら抱きしめられたあの感触は、泣き声は

いまでも思い出すと鳥肌が立つ。

会えた。生きてた。


7日ぶりに見る母の顔だった。


そこから会社に戻って祖母にも会えた。


家族を誰もなくしていない私は幸運だと思う。

どれだけ辛い思いをしても、どれだけ心細くても

私は幸運だった。


だって、生きて会えたのだから。


毎年3月11日が来ると、あの日を思い出す。

きっと、一生、あの出来事を思い出す。

辛いけど、泣きたくなるし、誰かに手を握っていてほしくなるけれど

それでも思い出す義務が、あの日被災した私たちにはあるのだと思う。

8年が経つと、以前あれだけやっていた募金活動、ボランティア、震災を取り上げる特集番組も、何もかもが‘‘薄い‘‘存在になっていく。

「震災から8年」という見出しのニュースが3分で終わる。

今日だって民放ではバラエティー番組ばかりで、震災の番組をやっていたのはNHKだけだった。

『あれから8年が経ちました。生きてることに感謝しよう』

という芸能人のツイートも少なくなった。


‘‘風化‘‘

これが風化か。と今日、テレビを見ながら感じた。

でも、


でも、それでいいよ


「風化させちゃだめだ、」ニュースのコメンテーターは言うけど

一年にたった一回でも、8年前の3月11日を思い出してくれたら


十分だよ。

時間の流れが違うのは当たり前で

私だって、きっと、被災者じゃなければ今日という日を

きっと1年のうちのありふれた1ページに、24時間にしてしまうだろう。

だから、私は忘れない。

あの思いを、あの出来事を

一生忘れない


東北人は強いよ。

忘れないよ


#あれから8年 #311 #頑張ろう東北 #前を向いて #仙台

#備忘録 #日記




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