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ネオテニーとして生きる

少女民俗学という本によると、日本では本来子供(女)は13歳くらいで成人を迎え、若い大人(女)として社会参加してきたらしい。それが近代化により身体的に成人しても成人とみなされない期間(少女)が生まれ、性別に直接縛られない独自の文化が育まれることになった。少女たちは主に学校や家庭に閉じ込められ、非生産的な生活をおくり、やがて結婚という形で卒業していく。その限られた期間の中での少女のありようが、不確かな世界へと交信する巫女のようである、というのが少女民俗学の主張であり、少女性は全ての人に偏在する、そしてそれを卒業できなければ世の中は大変なことになる、と結ばれている。
少女民俗学は80年代の終わりに、少女ではない著者により書かれたものだ。それを踏まえて考えると、当時、世の中の少女に対する認識はそんなものだったのではないかな、と思われる。しかし少女たちの自我が芽生えた90年代、インターネットにより個人が発言力を得、情報収集が容易になった00年代を通り過ぎて、今や20年代を迎えようとしている。そして世の中は大変なことになっている。
著者は少女についてとりたてて分析していたが(少女民俗学なので当然だ)、本来、この「成人男性的」と「少女的」という分類は性別、年齢に必ずしも合致するものではない。後者を著者の言葉を借りて、未知なるものと交信するものと定義するならば、前者は未知なるものを既知として支配しようとするもの、と定義出来るであろう。近代国家で是とされてきた生き方である。また、後者は少し前の言葉では、モラトリアムと呼ばれてきたものかもしれない。このモラトリアムが徐々に延長され、一見すると立派な大人と見られる人たちの中にも垣間見られるようになった。オカルト的なものに興味を持つ人、趣味の世界に没頭する人、一見世の中とのつながりを放棄しているようにもみえ、著者のけしからん、という声が聞こえてきそうである。でも本当にそうなのだろうか?我々は退行しているのか?
そもそも江戸時代、宵越しの金は持たないなんて言ってた時代から、我々はそんなに将来について予測し広範囲での視野を持ち、行動できてはいなかったのではないだろうか。この30年、テクノロジーの進化により我々の知覚できる範囲は大きく広がった。それに対して支配できる範囲はさほど広がっていない。そう、いまや未知なる世界はオカルトや精神世界だけではなくなったのである。現実世界もうすぼんやりとしか知覚できない生活圏の外側は未知なる世界で、そしてそれはどんどん広がってゆく。そのような状況で「成人男性的」に振る舞えるのは、よほど能力の高い人以外は、未知なるものが鈍化して見えていない(もしくは、意識的に見ていない)だけであり、未知であると認識してしまった以上は未知なる世界と交信しつつ生きていくしかない。もっというと、世の中が今かつてないほど大変なことになっているのは、これまで未知なるものをなかったことにして、交信すらせず、支配しつづけていたつけがまわってきているのだ。
我々は今部分的に成熟し、生活圏内でごく限られた範囲で支配的に振る舞っている。そして同時に、世の中の未知なる状況と交信し、未成熟なままで生活しているネオテニーでもある。その先に何があるかはわからないが、資本主義自体の伸びしろがなくなりつつある現代に我々(といっているのは氷河期以降に生まれた我々を指している)は右肩上がりの経済成長など信じていないし、少なくとも知覚可能な世界を限定し、その外側を無視して生きていくよりはマシな結果が得られるように思う。
我々は常に不安なのだ。未知なる世界は広がっていくし、目指すべきゴールも定まらない。そもそも人口は減ってはいけないのか?少ない人口でなんとかやっていける社会インフラを検討すべきでは?そもそも日本は先進国だったことがあったのか?選択的に知覚しないことにより先進国であると誤認していたのでは?我々の不安は未知なるものが増えていく中で、なんとなく世界が衰退に向かっているのではないかと感じていることに由来している。しかしその感じ方も限定された知覚の中での基準に基づいている。我々は本当に衰退に向かっているのか?本当は見せかけだけの繁栄の陰で、衰退しきった未知なるものとの関わりを復興している最中なのではないだろうか。未知なるもの、支配可能な範囲を超えた世界を思い通りにすることは出来ない。我々は無力だ。でも我々はネオテニーとして、自らが無力であることを知っているし、世界と交信し世界にフィードバックすることはできる。

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