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白線上のヒポポタマス|短編小説


試合は3対2、9回の裏。

マウンド上でマイケル・松井は額に流れる汗を感じていた。


中野は、グローブを握り直し、正面のキャッチャー城島克也を見つめる。城島は、松井の緊張感を感じているのか、山のごとく動かない。


(どうする。どうすればいい?)


バッターボックスに立っているのは今年のリーグ優勝を争っている、マミー・ライオンズの外国人助っ人選手、スタン・ザ・ラリアットだ。


『野球界のスタンハンセン』


彼はその名前とスタンハンセンにどことなく似ている容姿、バットをまるでラリアットのように垂直に振り切る独特の打法から、プロ野球界で注目を浴びているスター選手である。


スタンは、自分たちのチームの勝ちを確信しているかのように、余裕のある笑みを浮かべながら、バッターボックスに構えている。


今、松井達が所属する仙台ライブドア・ヒポポタマスは、リーグ優勝を決める大事な一戦を迎えていた。このチームはこの10年、リーグ最弱の成績を残し、辛苦をなめてきた。


しかしヒポポタマスは今年、花開いた。

着実に勝利を重ね、ついにライオンズとのリーグ優勝争いまでこぎつけたのだった。


(負けられない)


松井は強くそう思った。


10年以上チームを応援してきた球団のファンたち。そして、3年前、ほか球団の2軍から移籍してきた松井を応援してくれているファンたち。スポンサー、後援会、監督……。

この9回の裏に、期待を寄せる人々の顔がよぎる。


現在、2ストライク、2アウト。このままスタンを抑え込めば、ヒポポタマスの優勝が決まる。しかし、松井には2つ気がかりがあった。


1つは、この窮地に至っても余裕の態度をとるスタン。

そして、もう一つは3塁に福本譲二が出塁していることだ。


できれば仕留めておきたかった。だが、福本はことごとく松井の隙をつき、3塁に進んだ。今も、松井の隙を虎視眈々と狙っている気配が背中から伝わってくる。ごくり、と松井の喉がなる。


スタンが凡打を打ったとしても、きっと福本はホームベースに滑り込んでくる。スタンも福本の走りを信頼しているからこそ、余裕の笑みを浮かべているのかもしれない。

決して打たせてはいけない。

ストライク。ストライクだ。ストライクを狙うしかない。

だが、スタンは2度のストライクで、松井の球筋・クセ・戦略・今日の調子を読んでいるような雰囲気があった。


松井は迷っていた。今、何を投げるべきなのか。

城島からのサインは出ない。監督のほうを見たが、監督もサインを送ってこない。まるで、松井の判断に、この勝負をゆだねるような顔をしている。

(俺には、荷が……)

松井は頭の中でそんな言葉をつぶやきそうになって、頭を振った。違う、弱気になってはいけない。

松井は、目を瞑り、心の中で唱えた。

(俺はやれる。俺はやれる。俺はやれる。)


窮地に陥ったとき、松井は自分を信じる言葉を繰り返す。

これは、松井が子供の頃から無意識のうちに繰り返しているルーティーンだった。

女の子に告白するときも、受験勉強の時も、甲子園の時も。そして、自分の選手名簿を『中村明久』から、『マイケル・松井』に書き変えた時も……。

人生に大きな影響を与える勝負に挑むときは、かならずこのルーティーンを守った。だから松井は今、このマウンドにいる。


心の中の焦りがすっとどこかに飛んでいくような、いつもの感覚を取り戻し、松井はバッターボックスを見つめた。



「Hey、BOY。このままじゃ、テレビ中継が終わるぞ。こんな試合、早く終わらせよう」


スタンは、松井の焦りを煽るように言葉を投げた。何を食っているのか知らないが、くっちゃくっちゃとスタンは口を動かしている。


今静まったばかりの心に、小さな波風が立つ。


松井は、つい言い返してしまった。


「余裕だな、スタン。君の言うとおりだ、早く試合を終わらせよう。もちろん、ヒポポタマスの勝利でね」


松井は額に流れる汗を感じながら余裕がありそうな笑みを浮かべる。だが、スタンは松井の焦りを見抜いている。


「No,NO.それじゃ面白くない。ここから逆転しなきゃ。9回裏、2ストライク、2アウト。これを逆転してこそのライオンズ、これを逆転してこその、スタン・ザ・ラリアットだ」


彼はどうやら、日本のテレビがつけた『スタン・ザ・ラリアット』というニックネームををとても気に入っているらしい。スタンハンセンに自分を重ねているのかもしれない。


その気持ちが松井にはとても分かった

スタンと松井はどこか境遇が似ている。だが、明確に違う点がある。

ライオンズ側の観客席では、スタンハンセンのテーマが演奏されている。優勝のかかった一戦。ライオンズ側はブラスバンドを誘致し、ライオンズの勝利を煽り立てている。

ヒポポタマス側の観客席も、負けていない。ファンたちは、口を揃えて声援を送っている。

「ゴッジーラ! ゴッジーラ!!」


わかっている。この状況を作り出したのは選手名簿を本名から『マイケル松井』に変更した自分自身だ。しかし、この声援は……。


「はっ! ゴッジーラ、ね。よかったな、松井。ファンたちはお前をヒデキマツイだと思ってるぞ」

「お前だって、ファンからスタンハンセンだと思われているぞ」

「俺は勝手に言われてるんだ。お前はそうじゃない。自分で名乗ったんだ」

「2軍のパッとしない俺がここに来るには、それしかなかったんだ」

「スタンハンセンと松井秀喜の異種格闘技戦、ね。どんな理由があれ、面白いじゃないか。戦ってるのは紛い物同士だっていうのによう」

松井はハンセンの言葉に同調しようとして、やめた。

松井とハンセンは似ている。だが、決定的に違う箇所がある。

松井はそれを強く自覚していた。

「俺は、ファンがこの名前で夢をみられるなら、それでいいんだ」

「ヒーローだな、松井。俺は違う。おれは、ヒールだ。だが……強いヒールは売れっ子だ」

確かにその通りだ。ハンセンは球団スポンサー企業の『マミー』のCMに出演している。そして各種スポーツ番組、シーズンオフにはクイズ番組、グルメ番組……などなど。ヒールアイコンとしてもはや野球界を飛び越えて活躍をしていた。


それと比べて松井はどうだ。
CMの話など一度も来たことがない。そしてスポーツ番組にも出演したことすらない。

ハンセンは松井を強い目で見つめている。その圧倒的な勝者の風格に、一瞬気おされそうになった。が、松井はマウンドを踏みしめる足にもう一度力を入れる。


(俺はやれる、俺はやれる、俺はやれる)


白球を握りなおす。

白球は大量の手汗でずるずるだ。粉袋を取り、手のひらに塗りたくる。


城島は沈黙している。二人の会話を聞いているのか、聞いていないのか。それすらもわからないほど、無反応だ。


(城島。まさか、俺一人で戦わせる気なのか?)


城島の表情を伺おうとしても、その顔はヘルメットにさえぎられ、肝心の目元すら見ることができない。唇は言葉を発することを拒絶するように固く閉ざされ、何も語らない。


大一番。ここで勝負を決めるかどうかのタイミングで、なぜ城島は何も語らないのか。今ここで何も言わないことで、万が一この打席でスタンが決定打を叩き込んだ場合、責任逃れをする心づもりなのではないか。


(いや、違う。城島はそんな男じゃない。きっと、信じているんだ)


自分を、と続けようとして、頭を振る。違う。勝利を、チームを信じているのだと思いなおす。


(俺だって、信じている。勝利を、チームを……そして、自分を)


松井はボールを握りなおす。そして、何を投げるべきなのか。考え始める。ブラスバンドの音も、観客の声も、どこか遠くの世界へ行ったような心地がする。


どのコースで球を投げるべきか、松井は考え始める。

スタンがバットを振る瞬間を、一瞬でも躊躇わせれば、この勝負は、勝てる。

ならば。


インコース低め、ぎりぎりを攻める。この方法しかない。


覚悟を決めて球を握りなおす。

息を詰めて、目を瞑り、イメージを思い描く。


松井から緊張感が伝わるのか、騒然としていた観客席はだんだんと静まり返っていく。この万年最下位の、ライブドアヒポポタマスが初のリーグ優勝をするかもしれない。その瞬間を、球場の全員が見守っていた。


普段は騒がしい球場が、まるで湖の表面のように静まっていく。

松井はイメージを描く。インコースぎりぎりを狙うフォーム、球は低め、その球速。イメージの中のスタンがぎりぎりでバットを振り損ねる、その瞬間を具体的に、思い描く。


(勝てる)


松井が勝利する瞬間のイメージを確実につかみ、体を動かそうと重心をずらした瞬間。


パプーーーーーー

と、妙に間抜けな音が球場に鳴り響いた。


思わずはっとしてその音がしたほうを向いた。奇妙なピエロがニヤニヤと笑いながらラッパを握っている。そして、パプー!と、再び音を鳴らし、松井を指さしている。


だが、球場の誰も。向かい合ってるスタンも、沈黙している城島も、静まり返っている球場の中で誰一人、そのピエロのほうを見ない。


(ちくしょう、またか!!!)


ここ一番。ここ一番勝てると思って心を落ち着けた瞬間に、松井はいつもこのピエロの幻覚に襲われる。


すべての緊張が最高潮に達し、思わず静まり返る。その瞬間に、あのピエロは現れるのだ。そして、すべてぶち壊してしまうのだ。


現に今も、松井は笑いそうになっている!


だが、松井は理解している。この幻覚は自分にしか見えていないことを。

この幻覚は、緊張に耐え切れなくなった松井の脳が勝手に作り出している、防衛反応であることを、松井は知っている。

知っているのに、やめられない。知っているのに、笑ってしまう。


だが、松井は理解している。

今、日本中の野球ファンが、自分に注目していることに……!


(笑うもんか笑うもんか笑うもんか笑うもんか笑うもんか)


松井は心の中で強く念じる。重心を戻し、目をつぶり、投げる球を考えているふりをしたり、3塁の福本の様子を確認したりしながら、心を落ち着ける。

(今笑ったら、俺は、日本中に恥をさらすことになる!)

観客席に浮かんでいるはずのピエロを見ないように松井はふるまう。しかし、姿を見ないと見ないでどこにいるかがわからず、逆に不安になる。

(もし目の前にいたら、どうしよう……)

松井は薄目を開けて確認した。

いない。

あのピエロの姿が見えない。

目の前どころか、観客席にすらいない。

消えたのか、去ったのか。しかし、いなければいないで気になる。どこに。あの体の大きな、いかにも道化的なあのピエロは、いったいどこに行ってしまったのだ。あんな目立つものを、そうそう見失うはずがないのだ。

いや、だがあれは幻覚だ。消えたら消えたでいいのだ。

松井は、もう一度精神を集中しなおし、バッターボックスに立つスタンの方へ体を向ける。

松井は、驚いた。


城島。

城島が、ピエロになっている。


ピエロが律儀にキャッチャーヘルメットをかぶり、ミットを手にしている。だが! 今度はあらんかぎりの泣きそうな、悲しそうな顔をしてこちらを見ている。

(やめろ! 城島に乗り移るのは卑怯だ!!)

ヒポポタマスの守護神と呼ばれる城島は、寡黙な男だ。

控室でも今日交わした言葉といえば、「よろしく」「おう」のたった二言だ。バッテリーを組んで2年。城島がだんだんと口数が少なくなっていき、嫌われているのかと考えていた。

だが、今年のシーズン中に、だんだんとわかってきた。

城島は相手を信頼すると、寡黙になっていく男だということに。令和の時代だというのに、ずいぶん昭和の親父みたいな男だと思っていたが、その寡黙さがチームに一種の連帯感を生み出していることに気づいた。

こういう男が、一人ぐらいいたっていい。むしろヒポポタマスのチームの中には、いなくちゃダメだ。そう、思っていた。

だが、今向かい合ってる城島はピエロだ。

何とも言えない、お道化たメイクの城島がそこにいる。

(笑っちゃダメだ笑っちゃダメだ笑っちゃダメだ笑っちゃダメだ笑っちゃダメだ)

これはどんな拷問なのだ。勝負を決める9回裏、2ストライク2アウト。ただ、この1球を無事に投げ切ることができれば、ヒポポタマスは初のリーグ優勝を飾れる。

しかし。しかし、だ。

もしこの1球をピエロ城島に気を取られて、笑って投げてみろ。間違いなくスタンのラリアット戦法で、ホームランを決められる。

ここまできたのに、だ。

他球団の2軍から引き抜かれ、1軍の選手として自分が地面をはいずりながら、ようやくこのリーグ優勝をかけたマウンドに立っているのに。

目の前のバッターは、宿敵『スタン・ザ・ラリアット』だというのに。

キャッチャーが、最も信頼している城島だというのに。

ピエロだ。ピエロなのだ。

城島がピエロになって、とてつもなく悲しそうな顔をしているのだ。

この状況は、いったい何なのだ!


(投げよう)

松井は、そう思った。

もう、難しいことも何も考えずに、思い切り投げてしまおう。

そしてこの地獄から解放されて、勝っても負けても、笑う。腹の底から笑う。

誰も自分がが笑っている理由なんぞ、わかりはしない。

勝って笑えば、勝利の笑顔だ。負けてえしまえば、自分が笑っていることに誰も気づきはしない。

どうせマミー・ライオンズの選手が無遠慮にグラウンドにあがってきて、監督もコーチも控えの選手もモミクチャになって胴上げ大会だ。俺はさっさとマウンドから立ち去って、トイレにでもこもって大笑いすればいい。

そうだ、考えるのをやめよう。

投げろ、投げるのだ。投げろ。笑うな、笑うな、松井!!

松井は覚悟を決め、白球を再び握りしめる。

投球フォームの姿勢を取り、何も考えず、思い切り球を投げた。

何も考えなかったから外角高めのコースどりになってしまった!

スタンのバットに当たれば、飛ぶ。間違いなく、飛ぶ!

スタンは一瞬、驚いた顔をしたが、にやりと笑ってバットを振る。

出た! スタン・ザ・ラリアット!!


(だめだ、打たれる……っ!)


球場全体が、どよめいた。その瞬間、松井は悟った。


(終わった。俺はここで、終わった)


リーグ優勝をかけた最後のマウンド。最後、確実に決めなければいけないタイミングで、最も打ちやすいコースに球を投げてしまった。

これを打たれれば、誰の目にも明白だ。戦犯が自分である、と日刊スポーツの1面を飾り、スポーツTODAYで評論家にこき下ろされる。

『やっぱり、ヒポポタマスはヒポポタマスでしたね』

なんて、大して面白くもない洒落であざ笑われる。

だが、それでもかまわない。俺は、とにかく、この笑いたいけど笑えない状況から逃れることだけできれば、それでいい。後のことはどうなろうと、かまわない。

ふひっ、と松井は自分の頬が緩むのを感じた。体の底から、笑いがこみあげてくるのを感じた。もうだめだ、限界だ。早く、終わってくれ……――!!

スタンがバットを一直線に振り切る。だが……松井には見えた。その瞬間が見えてしまった。

まるでスタンのバットを避けるように、球が一瞬、コースから浮いた。

「ぬぁ……ん、だぁとぉぉぉぉぉ!」

スタンが、叫ぶ。大声で、叫んでいる。予想外のコースをとった球に翻弄され、バットを、振り切る。

そしてピエロになっていた城島が、ふっと、元の顔に戻る。

城島が、強い目つきで球を追いかけている。

コース上に、キャッチャーミットを、配置する。


スパァーーーーーーーン!


ミットに球が収まる音。これほど爽快な響きを持った音を、松井はいまだかつて聞いたことがなかった。

審判が吠える。

「ストラィーーーーーーーーーク!! バッター! アウトォ!」


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