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わたしはわたしの言うことしか聞かない

少し前向きな話をしようと思う。

これまでの人生の中で数々の選択をしてきた。わたしは自分の意思決定に自信を持てないが、それでも自分なりに考えて物事を選択してきたつもりだ。思い返せば他者承認を求めるのは、いつも自分で選択肢を絞った後だった。わたしはこう思う、こう考える、だからこうしようと思う。それをどう思う?がお決まりのパターンで、周囲の人たちはいつもその選択を後押ししてくれた。

こうは考えられないだろうか。わたしの考えや選択は大方最善であって、だからこそ他者は「それでいいと思う」と言ってくれる。

少なくとも、わたしは自分が納得できないことはいつまでも納得しないし、人にどう言われてもそれが違うと思えば意思を曲げることはない。それはつまり、自分の選択はある程度正しいと思っていて、それを確認するために他者承認を求めているということではないだろうか。

意思決定を行う際、わたしは他者承認を求めるが、その結果が思うようにいかないからといって、それが承認した他者のせいだと考えたことはない。つまり、わたしは自分の意思決定の責任の所在を、きちんと自分自身で持っているということだ。


わたしが唯一、他者に責任を押し付けたことがある。

「どうしてわたしを産んだんだ」と、10代の頃、希死念慮が増幅していた時期に母に投げつけた言葉がそうだ。言ってはいけないことを言ってしまったと、今でも後悔の中にいる。あの頃のわたしは自分がどう生きていけばいいのかもわからず、暗闇の中でただ蹲って泣くばかりだった。自分が生まれてきてしまった後悔や罪悪感、それこそ「正しくない」自分の存在に打ちひしがれ、その責任の所在を母に投げつけた。

今ではわかる。人は生まれてくることを選べないし、生まれてしまえばその先どう生きていくか、母にも誰にも決めることはできない。ひたすらに自分自身で歩みを進めていくしかないのだ。

若かったあの頃には、そんなことは考え付きもしない。今でもこれからの人生を思うと出口のない暗闇を歩いていくような気持ちになる。それでも食事を摂り、仕事をし、眠る日々を繰り返す中で自分の歩く人生とやらを形作っていくしかない。


自分の意思決定に自信は持てなくても、他者に承認されることで進んでいける。少なくとも、これまでの道のりを振り返ればそれが事実だ。わたしは物事をよく考えるし、メリットデメリットを比較して最善の選択肢を出せる。

不登校も引きこもりも、結婚も離婚も、就職も休職も、退職だってわたしが全て選んできた道だ。そしてそのすべてに対して、わたしは責任を取ろうとしてきた。

他者に承認を求める、ということは、信頼できる人に自分を開示できるということだ。自分が安心できる人に対して「助けて」とサインを出すこともできる。そしてその人たちがわたしを助けてくれるのは、わたしがきちんと自分を開示し、信頼できる関係性を作ってきたからとも言えるのではないか。


自己決定に自信を持つことは大切だ。これまでは他者承認でそれを補ってきた。ただそのスタイルは変えなくていいと思っていて、変えたいと思うことはひとつだ。

「わたしはこうしようと思っている」

人に自分の選択を伺うのではなく、わたしはこうしたいという意思表示をしていけたらいい。どうせ他者に何を言われてもわたしは自分が納得しなければ人の言うことなんて聞かないのだ。それに、自己決定とその責任の所在はきちんと自分の中にある。

ひとつ気をつけたいのは、他者の意見を聞き入れようとする姿勢は持たなければいけないこと。自分の意思が確固たるものになる前、選択をひとつに絞る前に、「あなただったらどうする?」のワンクッションを入れるようにしたい。データ集めは得意分野なのだから、きっとできると思う。自分の中だけでない、豊富な選択肢の中で、自分にとっての最善を、自分自身の手で選びたい。

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