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気まぐれに辿り着けない海のこと

気まぐれに辿り着けない距離に住んでいるからか、海に行きたいと思うことはかなり多い。そのとき思い描く海は早朝であったり、夕方であったり、夜中であったりするけれど、いつも決まって周りには誰もいない。私ひとりが、波打ち際に立っていて、座っていて、時折歩いている。海。たぶん、私にとってのそれは「ここではないどこか遠く」の象徴なのだろう。

それでも人生で数えるほどには海に行ったことがあるのだ。家族で潮干狩りや泳ぎに行ったり、友人と江ノ島に行ったりしたこともあるのだ。でもそういう海は観光地の代替に過ぎず、上述した楽園的な海という場所へは一度しか行ったことがない。3年前の新潟の海だ。

どうしても行きたい展覧会があって、友人を誘って新幹線に乗って日帰り旅行をした。自分で新幹線のチケットを買ったのは人生初だったし、遊びで新潟に行くのも初めてだった。展覧会を楽しんだ後、海が近いからと二人で海岸線を探した。夕方になって、皮膚の感覚は忘れてしまったけど、風が心地よかったことは覚えている。

海岸に沿うように伸びた道路を歩いていくと、滑り台のような台形があった。展望台というには大分小さいもので、階段付オブジェ、と呼んだほうが似つかわしいほどだった。時間もあるからと車道を越えて階段を登る。周囲には誰もいなくて、背中の向こうで時々ヘッドライトの線が通過した。空はジェッソにピンクと水色を混ぜたようで、こんなにきれいな海は見たことがなかった。世界に二人だけだと錯覚するほど(或いは、友人のことも置き去りにして私一人だけかと思えるくらい)だった。きれいきれいとはしゃいで、写真を撮って、あとは無言になってずっと海を見ていた。目をつぶって台形の屋上壁にもたれると、海風に包まれているようだった。時間が止まったようでいて、日は暮れてしまうのは一瞬だ。いつしか左側の空から灰色とオレンジに染め上げられて、風は少し冷たかった。それでもやっぱり視界全部がきれいで、ずっと見惚れている。

「すごいね」
聞き慣れない人の声がしてあたりを見回すと、観光客らしき二人組が階段を登るところだった。永遠に思われた空間が少しずつ現実に引き戻されて、スマホの画面をつければもう新幹線のやってくる時間が近づいている。帰ろうか、と言ったんだか言ってなかったんだか忘れたけれど、自然と帰路についた。その後の記憶はない。


これまでもこれからも私はずっと海に行きたいと言い続けるし、思い続けるんだろう。そこはやっぱり曖昧で非実在な「ここではないどこか遠く」でもあるし、戻れないあの夕方の海でもあるんだと思う。これから先同じ季節に同じ場所に同じ友人と行ったとして、もうあの海へ行くことはできないのだろう。願わくは、記憶を書き残すことで、脳内でだけだとしても、いつだってあの海へ行けるといい。

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