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2020.4.29 ずっと前に住んでいたマンションの名前

を覚えているだろうか。私は7年くらい前、10年くらい前に住んでいたマンション名を全然覚えていなかった。記憶なんてそんなもんですね。
日記。

朝から「コロナの時代の僕ら」を読む。イタリアの小説家によって2/29〜3/4に書き下ろされたエッセイからなる本。
感想文が苦手なので、印象に残った文を引用。

SARS-CoV-2は今回の新型ウイルスの名前で、COVID-19は病名、つまり感染症の名前だ。

これは知らなかった。なぜ2種類の表記があるんだろうかと思ってた。

でも、感染症の流行に際しては、何を希望することが許され、何は許されないかを把握すべきだ。なぜなら、最善を望むことが必ずしも正しい希望の持ち方とは限らないからだ。不可能なこと、または実現性の低い未来を待ち望めば、ひとは度重なる失望を味わう羽目になる。希望的観測が問題なのはこの種の危機の場合、それがまやかしであるためというより、僕らをまっすぐ不安へと導いてしまうためなのだ。
「More Is Different」すなわち「多は異なり」だ。物理学者のフィリップ・ウォーレン・アンダーソンがこの言葉を記した時、その頭にあったのは電子と分子の話だったが、これは僕らについて述べた言葉でもある。ひとりひとりの行動の積み重ねが全体に与えうる効果は、ばらばらな効果の単なる合計とは別物だということだ。アクションを起こす僕らが大勢ならば、各自のふるまいは、理解の難しい抽象的な結果を地球規模でいくつも生む。感染症流行に助け合いの精神がない者には、何よりもまず想像力が欠けているのだ。
鉄道もあれば、バスもあり、乗用車もあれば、今では電動キックボードまである。同時にさまよう七五億の民。まさにそれこそがコロナウイルスの交通網なのだ。速くて、快適で、津々浦々まで張り巡らされた、まったく僕ら好みのネットワークだ。
感染症の流行時は、人類の有能さが人類の不幸の種ともなる。
いずれにせよ―どうしてもアジア人の顔を見分けることができぬ僕らイタリア人の困難はさておき―今度の新型ウイルスの流行は、何もかも「お前らの」せいではない。どうしても犯人の名を挙げろというならば、すべて僕たちのせいだ。
つまり感染症の流行は考えてみることを僕らに勧めている。隔離の時間はそのよい機会だ。何を考えろって?僕たちが属しているのが人類という共同体だけではないことについて、そして自分たちが、ひとつの壊れやすくも見事な生態系における、もっとも侵略的な種である事について、だ。

本質的な事が簡潔に平易な言葉で記されているのでスルッと読めて、心が穏やかな気持になる良い本でした。以下のnoteで「あとがき」が読めます。

昼過ぎから、自然の景色を見たくなり、以前住んでいた多摩川付近まで無着陸ドライブ(どこにも降り立たない、寄らない、誰にも合わない)。吉祥寺、三鷹、深大寺、調布飛行場、それから川を渡って登戸付近まで。
先週、自転車で行った荒川よりも、多摩川の方がちょっと高級感があって好きだ。終の棲家は海が見えるマンションかなと考えていたが、川沿いに住むのも良いかもなと思った。

前住んでいた家の前を通過する時に気付いたのだけど、マンション名が思い出せない。マンション名が表示されているプレートを見て初めて、ああそういう名前だったと、記憶ってそんなに早く消失するもんだなと思った。

無着陸で帰宅して、映画「蜜蜂と遠雷」、Netflixの「星野源 DOME TOUR "POP VIRUS" at TOKYO DOME」を見る。音楽の力は大きい。あと松岡茉優さんはスパっとしたストレートのボブよりも、ふんわり髪型の方が好きだ。

新しい仕事を始めて1.5週。ようやく仕事と休みの日の分別ができてきたような気がする。普段は大体、仕事をしながら休みの事を考えて、休みの日に遊びながら仕事の事を考える、そんなバランスの方が、仕事も遊びもポジティブに考えられるので、心地よく生きている気がするんだけど、だいぶそれに近い状態になってきた。仕事用机・椅子を家に置くのか問題については目をそらし続けている。腰が痛い。






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