見出し画像

秩序に服従したがる日本人

E.フロム「自由からの逃走」昭和26年12月30日 初版/昭和40年12月15日 27版(新版)/昭和62年10月20日 94版/東京創元社
👇
ここで取り扱おうとしている自由からの逃避の最初のメカニズムは、

人間が個人的自我の独立を捨てて、その個人には欠けているような力を獲得するために、彼の外側の何ものかと、あるいは何事かと、自分自身を融合させようとする傾向がある。

言い換えれば、失われた第一次的絆の代わりに、新しい「第二次的」な絆を求めることである。

このメカニズムは、服従と支配への努力という形で、はっきりと表れる。あるいはむしろ、正常な人間やとくに

神経症的な人間のうちに色々な程度で見られる処の、マゾヒズム的およびサディズム的とでも言いうるような努力のうちに、表れる。

まず、これらの傾向について述べ、次に、これらの何れもが、耐え難い孤独感からの逃避であることを示そう。

マゾヒズム的な努力としてもっともしばしば表れる形は、劣等感、無力感、個人の無意味さの感情である。この感情に取りつかれた人間を分析してみると、

彼らは意識的にはこの感情を不満に思い、それから逃れようとしているが、無意識的には、彼らの内部に潜むある力に駆られて、自分を無力な、重要でないものと感じていることがわかる。

彼らは事実、自分は無力なのだと言い張っているが、彼らの感情は実際の欠点や弱点の認識をはるかに超えている。彼らは自分自身を小さくしようとしている、弱くしようとしている、そして事物を支配しないようにしている。たいていの場合、

彼らは外側の力に、他の人々に、制度に、あるいは自然に、はっきり寄りかかろうとしている。彼らは自分を肯定しようとせず、したいことをしようとしない。しかし、外側の力の、現実的な、あるいは確実と考えられる秩序に服従しようとする。彼らは「私は欲する」とか「私は存在する」とかいう感情を持つことが不可能であることがよくある。生活は全体として、支配も統制もできない、圧倒的に強力な何ものかとして感じられる。


もっと極端な場合には――しかもしばしば――自分を小さくし、外側の力に服従しようとする傾向のほかに、自分を傷つけ、悩まそうとする傾向がみられる。

この傾向はさまざまな形をとっている。我々は、その最悪の敵でさえほとんど思いもつかないような自己非難や自己批判に耽っている人々のあることを知っている。また強迫神経症患者のように、強迫的な儀礼や思考で、自分を苦しめる人々もある。神経症的人格のなかには、肉体的に病気になろうとする傾向、つまり意識的か無意識的かに、病気をまるで神の賜物であるかのように待ちこがれる傾向も見出される。彼はしばしば、もし事故を起そうとする無意識的な傾向さえなかったならば、起らなかったであろうと思われるような事故を引き起こすことがある。この自分自身に向けられる傾向は、もっと表面的でも劇的でもない形で表れることもある。たとえば、試験のとき、あるいはそのあとで、はっきりその答がわかっているにもかかわらず、その時には質問に答えることのできない人がある。また彼らが愛し、また頼っている人に、反抗するようなことをいう人がいる。事実は、彼はその人に友情を感じており、そのようなことをいうつもりはなかったのである。彼らはまるで、彼らの敵の忠告に従って、彼らにとって一番損な仕方で行動しているかのように思われる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?