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カルヴァン主義は換骨奪胎して通俗哲学になった-3

今日、アメリカでは宗教ルネッサンスが起きていますが、多くの人が言うように、私はこの宗教ルネッサンスの90%は、真の宗教体験が直面する、最大の脅威であると言いたい。なぜなら、この宗教ルネッサンスと呼ばれるものでは、デール・カーネギーの「友人を獲得して成功する方法」と、旧約・新約聖書の規範を混ぜたようなものが、試みられているからです。しかも、ある種巧妙で、時にはそうでない方法で。人々は二つの要素を合体させようとする。それは実際、行われていて、こうしたことは、真に宗教的精神を持つ国で、頻繁に起こりうることなのです。
 ➡ エーリッヒ・フロム「マイク・ウォレス・インタビュー」1958/05/25

司馬遼太郎「太郎の国の物語」4、自助論の世界 より
■大ベストセラー「西国立志編」
もうひとつ、話があります。やはり幕末にですね、幕府から派遣されてロンドンに留学した人がいまして、中村敬宇(けいう)名前は正直・・・私は敬宇敬宇といっているものですから、ここでは中村敬宇・・・。

この人は幕臣の中でも大秀才でしてですね・・・昌平黌(しょうへいこう)の大秀才で、大変な人ですね、まあ・・・オリジナリティがあったかどうかは別にしても、大変な人です。それをまあ、幕府が選んで・・・これからは英学だということでロンドンに留学させて・・・している間に幕府が瓦解して、急遽帰らなければいけない・・・帰ったら幕府が無くなっていて、静岡に移っているということで静岡へ行きました。なんといっても旗本五万騎というぐらいの人数ですから・・・それに家族を含めて移るんですから、農家の小屋を借りたりしてですね、幕臣の静岡における暮らしは悲惨なものでした。

その悲惨な幕臣たちに勇気づけをしようと思ってですね、中村敬宇が、翻訳をするんです。中村敬宇が付けた題が「西国立志編」ですね・・・まあ、幕末、明治のベストセラーが福沢諭吉の「西洋事情」で、それをしのぐ大ベストセラーが「西国立志編」といわれていますけれど、明治4年だったと思います。明治4年に静岡で書いて、木版刷りで印刷された本です。

■サミュエル・スマイルズの「自助論」を翻訳
ロンドンから帰ってくる船の中で読んでいたようですね。著者は、サミュエル・スマイルズです。スコットランドの人で、お医者でもあった人なんですね。あとで、地方新聞の主筆なんかをして・・・ちょっとあいまいな・・・あいまいといったら悪いでしょうけれど・・・別に高級な思想家ではなくて、通俗的な・・・通俗哲学として「自助論」というの書いたわけですね。自助論・・・つまり、神というものは、自ら助ける者を助けるんだという「自助論」ですね。自ら助ける者のみが偉いんだと・・・これはプロテスタントそのものです。プロテスタントの清教徒以来の、イギリスのプロテスタントのエッセンスをいろんな事例で書いてあるわけなんですけれど。

だけど、その・・・こうやったら大金持ちになりましたとかいう(だけの)話なんです・・・たいしてこの・・・哲学的な話じゃなくて、思想書と言えるほどのものじゃないんですが・・・それでも、それを読んだ中村敬宇は・・・出世主義というようなものではなくて・・・しっかり生きてい行こうと・・・幕府が瓦解して、幕臣は前途に希望も失って静岡で、農家の小屋かなんか借りて暮らしていると・・・元気づけのために書いたわけですね。

■自助論に適う日本の徳目
それが明治の、明治の青年によく読まれたというのは、江戸時代から引き継いできている、一種の日本的な自律という徳目ですね、それから自助という徳目、これは二宮尊徳も言ってましてですね・・・江戸時代に石田梅岩が起こした心学もそうですし、それから普通の農村の徳目もそうでした。武士階級の徳目もそうでした。

偶然に、江戸時代から、一種のプロテスタンティズムというのが、日本の風土でした。勤勉こそが尊いとか、怠け者はいけないとか・・・それが明治に引き継がれていて、その本を読んだ人は、異様な話を聞くんじゃなくて、もっともだと思ったわけですね。もっともだと思う風土が日本にあって、むしろカトリック国よりも・・・変な言い方ですけど、プロテスタントの理解がよく行き届いた。

■宗教と世俗の生活は同次元
(ナレーション)石田梅岩は1685年、マックス・ウェーバーより正確に200年はやく丹波の国に生まれた。京都で町家に勤め、住み込み番頭で終わったが、45歳で退職したのち、後世のマックス・ウェーバーの論旨とよく似た一般大衆のための講義を行った。落語で熊さん八つぁんが、ご隠居から行って聞くように勧められる石門心学がそれで、これが江戸日本を覆った町人思想、すなわち勤勉の哲学であったのである。梅岩は、利潤・貸し借り・所有、それを貫く正直の意義を説いた。ウェーバーの言う資本主義の前提条件である。

(ナレーション)三河武士で、徳川家康の部下であった鈴木正三は、梅岩よりさらに106年前に、今の愛知県足助町に生まれた。石田梅岩の著作が正三のものと、しばしば誤って伝えられるくらいに、二人の考えは似ていた。理論的な反キリシタン思想家でもあった鈴木正三は、結局、プロテスタントと同じ理由でその教義に異を唱えたのかも知れない。彼の著書のなかで、宗教と世俗の生活は同次元のようである。

■語弊があっても、あえて言いたい。
カトリック国はプロテスタントというのはいけない・・・たとえば、アイルランドでは今でもですね、最大の悪魔は、このプロテスタント野郎!というのが・・・悪魔ですが・・・だから、アイルランド人にとっては、プロテスタントの考え方は、いろんな・・・別の形で受け入れられているんでしょうけど、明治の日本人よりは遠いでしょうな。だから、明治の日本人の方が、なんて言いますか・・・プロテスタントについての受容が・・・むしろこの・・・喜び勇んだかたちで受容していたように思います。

敬虔という言葉が日本語になっていますが・・・あの人は敬虔な人だとか・・・「虔」なんて言葉はめったに使わない漢字なんですけど、あれは明治に対訳語として作った言葉なんですが・・・プロテスタントの人が「常住坐臥」(じょうじゅうざが)神様が見ているものですから、きちっとしている・・・そして、神様に対して自分の真心を捧げている・・・その反映として世の中に尽くさなければいけない、そういう心の在り方を敬虔・・・緩みのない緊張というのを、敬虔というわけなんですけども・・・敬虔という言葉では、実に敬虔な人が伝道者としてたくさん来てましてですね・・・今だに私たちは、クリスチャンというと、ああ真面目なんだと・・・そのようにしてですね・・・クリスチャンでも西洋では、いろいろあるのに・・・わざわざ日本では、クリスチャンというのは真面目だ、というようなイメージになっているというのは・・・明治のプロテスタント、あるいはプロテスタンティズムの在り方が、非常に真面目で、しかも、日本の明治人の風土に合ったと(いうことだと思います)。

・・・明治国家というのは、やはり一種の・・・これはちょっと語弊がありますけど、わざと言いますと、一種のプロテスタンティズムの国家だった、というようにも言えそうですね。

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