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【読解】永井均「この現実が夢でないとはなぜいえないのか?」

はじめに

本noteは、『現代思想2024年1月号 特集=ビッグ・クエスチョン(青土社)』に所収された、永井均の「この現実が夢でないとはなぜいえないのか?」を紹介するものである。短い論文であり、文章に複雑さはないが、それがかえって難しい。

この現実が夢でないとはなぜいえないのか?永井の答えは、「この現実は夢の特徴を持ちあわせている」からだ。つまり、現実は夢っぽいのだ。
では、夢の特徴とは何なのだろうか?

要約と概要

夢にはさまざまな特徴がある。例えば、醒めること、反省的な意識が働かないこと、などなど。だが、それぞれ異論を差し挟むことができる。では、異論を差し挟めないような本質的な特徴は何か。それは、「単独の主体から開けている(9頁)」、というものだ。現実の世界は、他者たちと共有された世界であるが、夢の世界は現実のように、他者たちと共有された世界ではない。夢はこの現実の特徴と対比され理解されている。夢を見ることは、他者には理解されない個人的な経験であり、いってみれば幻覚のような経験なのである。

だが、ことはそう簡単にいかない。われわれが現実と呼ぶ体験にも、夢の本質的な特徴が付随している。それは、現実も「じつは単独の主体から開けている(だけ)」なのである。永井は「現実の夢ではなさ(夢でないことの特徴とされるもの持っているという共通了解)は、実のところはある種の規約に基づいて後から構成されたもの、端的な事実に反する一種の約束事にすぎないのではないだろうか(9頁)」と提起する。

一見夢に似ている、デカルトの悪霊による欺かれた経験や、パトナムの水槽脳が作り出す世界や、映画『マトリックス』の世界は、他人も含めたみんなが共通に体験できる形で提示される(デカルトの悪霊は読み方次第のところはあるが)。実は、これらの思考実験やSFは、全員で共有された夢のような設定になっているのだ。だから、これらの世界は全員で共有されているという点で、現実と同じ特徴を持っていることから、現実と区別ができないともいえる。

だが、現実世界もこれらの虚構の世界も、その舞台設定とはまったく無関係に、やはり夢のようなあり方をすることが可能なのである。どの世界でも、「なぜかその世界の中にある一人の人間からだけ――だからそれを「私」と呼ぶのだが――開けている(という構造をもつ)ことができる(10頁)」わけだ。永井は、その特定の「開け」のあり方は、どのような舞台設定とも無関係であるという。悪霊世界も水槽脳世界もマトリックス世界も、果ては現実世界も、共通して「開け」を持てる。だから、それぞれの舞台設定と「開け」は無関係なのである。

この現実は、夢の本質的な特徴である特定の「開け」を有している。そして、「その世界の中にある一人の人間からだけ開けている」原因が何であるのか、何ものも答えてくれない。悪霊も水槽脳もコンピュータも、他人も含めたみんなが入ることができる仮想の世界全体を作り出すことはできるが、そのうちのある一人から「開けている」ことを作り出すことはできない。

現実世界は一主体の経験でしかない夢のような特徴を持ち合わせているのだが、現実世界に対する一般的な解釈は、一主体の体験としてしか存在できないようにできている理由を少しも説明せず、そういった問題意識もない。

もし、読者方々が実在するのであれば、それぞれ一主体の体験として存在するしかない。もしそうでなければ、文字通りの誰か(永井)の夢の中に存在しているにすぎないことになるが、そうではないと信じるとすると、方々が夢見の主体である世界は、私のこの世界と重なりつつも実に遠いところにあるような、「夢よりもっと夢のようなあり方(11頁)」をしているのだ。

改めて、なぜこの世界は夢かもしれないのか

一般的に「本当は幻想なのかもしれない」というタイプの問いは「懐疑論」と呼ばれ、われわれが普段何気なく実在していると信じているものを疑う種の主張である。代表的なものは、「外部世界は存在するのか?」という客観的な実在に対する懐疑であったり、「他人は存在するのか?」という主観的な実在に対する懐疑である。少々複雑な話を省略するが、「外部世界」という概念の由来は、もとをただせば「他人と共有された世界」であるから、「他人は存在するのか」という問いを包含していると解釈することも可能だろう(なお、外部世界が成立した後に他人が完全に死滅しても(『アイ・アム・レジェンド』の序盤のように)、外部世界は独り立ちしているので問題なく成立する)。

さて、映画『マトリックス』では、機械に支配された社会で、人間は機械に夢を見させられながら飼われている生物である。人々は夢の中で暮らし、基本的に目覚めることはない。この映画の主人公は「目覚める」のだが、本当に疑いつくすのであれば、目覚めた先の世界もまた夢である可能性はある。よって、常に「外部世界が疑いえる」ことになる。私たちが見ている世界も同じなのである。いわば「これは夢である」という目印は、この世界を千里眼的に見ても、素粒子レベルの解像度で見ても、どこにも施されていないのだ。仮にその目印があっても、それをもって夢ではない証拠にはなりえない。つまり、私たちが知ることができるのは実際に見えているものだけであって、その世界自体の由来を知りたいのであれば、さらに外部の世界から見て位置付ける必要がある(もちろん外部の視点など持ちようもないが、信じることはできる)。
永井は、「主体たちの一人がなぜか私であるという特性」を「それらの設定の側がそれを作り出すことはできない ・・・・(10頁)」という。これを他人全般の「読者方々」に拡大すれば(永井が信じたように)、世界が開けているという事実、何であれ何かが見えているという事実、そして現に存在しているのは「私の世界」だけであるという、方々にとっての事実は、世界の外部の何にも由来しない、ということになるだろう。だから、外部からこの世界を産み出しているものがコンピュータであれ、悪霊であれ、実在する外部世界の脳であれ、本質的に違いはないのだ。だから、懐疑論は正しい。

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