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「私」はどこにいるのか?④

前回の続き。

主体としての「私」があるとしたら、それは物理的空間にない以上、心の中にしかないのであった。さて、主体としての「私」を心の中で探し当てる術はあるのだろうか。

「私」が主体であるならば、感じられるものではなく、感じるものなのであった。だから、少なくとも自分自身で感じることはできないだろう。何かを感じていれば常に私は感じる側なのであり、感じられる側ではない。

また、物理的空間のように心の中に自分の姿を映す鏡があったとしても、そこに映るものが本当に主体なのかどうか疑問の余地が残る。もっと言えば、心の中で鏡像という概念が成立するとも思えない。となると、他人に感じてもらうしかないが、それは鏡を置く以上に不可能なことである。私の心の中にあるものが、感情であろうと思考であろうと、ましてや主体としての「私」であろうと、他人が感じることはできない。もし、他人が何かを感じたのならば、その感じたものは感じた他人の心の中のものだからだ。もし、私の頭の位置に他人が痛みを感じたとしても、その痛みは他人がリアルに感じる痛みであって、私の痛みではない。痛みを主体と置き換えても同じことである。つまり、主体としての「私」を、他人が他人の心の中で感じているにすぎない。それは少なくとも、ここで探し当てようとしている主体としての「私」そのものではないだろう。

主体としての「私」を感じられる可能性は、論理的な可能性としてもない。いくら科学が発達しても、それは不可能なのだ。では、それを根拠に存在する可能性もない、とまで言えるのだろうか?

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