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「私」はどこにいるのか?⑥

https://note.com/ro_do_sha/n/n78f1f5d68859

前回の続き。

主体としての「私」の存在を信じるとして、その信じた「私」はいったいどこにあるのか?私たちが認識できない遠いどこかにあるのか?それとも、手が届くような世界の内側にあるのか?

デカルトが脳の松果体のあたりに精神としての自我があると主張したのは有名な話である。だが、もちろん、松果体をいかに解剖しても精神を物理的空間で見出すことはできない。もしこの精神を、主体としての「私」と見立てるのであれば、心的な空間とも言うべき比喩的な別次元空間に存在することになる。これは突飛な発想ではないだろう。一般的には「私」は身体の内部に位置していると思われているし、とりわけ脳が重要な器官であると見立てる理由があるからだ。脳は他のありふれた他の物体とは明らかに異なる性質をもつ。脳をいじくれば見える景色を変えたり、幻聴を聞かせたり、悲しい気持ちにさせることもできる。脳の状態と、知覚や感情が連動している様子が観察できるのだ。脳が神経系の最末端に位置し、その因果の先には精神が存在すると考えるのは、自然なことではある。

「心の哲学」と呼ばれる学問分野は、この精神と物質の関係がどういったものなのか、精神が存在するとすればどのように存在しているのか、あるいは本当に存在すると言えるのかを探求する学問である。そもそも、デカルト的な精神のあり方を前提にした議論なのであり、一般的な世界観を前提にした議論でもある。この世界観を疑うことはいくらでもできるのだが、その本質的な理由は意外に議論されていないかもしれない。

なぜこの世界観は疑わしいのか。その最たる理由は主体としての「私」が、これまで確認してきたように、定義上誰にも認識しえない、という点にある。精神が物理的な空間に存在していないからだとか、物質と精神との間をつなぐ因果関係を理解できないからだとか、そういった疑わしさはおそらく派生的な疑いに過ぎない。「私」が認識しえない存在であるということが、これらの疑いを支えている。だが、「私」はあまりに身近すぎて、その超越的構造に気づかずに、手近にある物体や、感情などの心の内容と、同じような存在と混同してしまいがちなのだ。だから、その認識可能性があるかのように思われてしまいがちなのである。「私」の存在は、物理的な脳や心的な感情などよりも、神のような、定義上われわれには認識されない高位の存在に近いとすら言える。

いくらでも疑えるということは、裏を返せばいくらでも信じることができるということだ。実生活では信じて生きている人が多いだろう。疑う可能性があるものは、信じる可能性があるものなのだ。

「私」がいると信じることは可能だろう。残念ながら手は決して届かないし観察もできない。だが、脳の先の物理的ではない次元に、「私」がいると主張することはできるし、実際に私たちの多くはそう信じている。

では、なぜ「私」はそのような超越的な存在なのであろうか?

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