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ただ「見る」そして「己に問う」~東京国立近代美術館「ゲルハルト・リヒター展」

東京国立近代美術館で開催している「ゲルハルト・リヒター展」へ行ってきた。当人のリヒターは御年90歳、いまだ現役の現代美術の巨匠である。
自分自身、苦手な現代美術であるが、現代美術のポイントを以前学んだこともあり、作品に向き合ったときにどう受け止められるかを確認する意味でも足を運んだ。

↑でも紹介したとおり、現代美術(の多く)は、描き出されたものがら自体に意味はない。それは一切の具体性を排除し線や色そのものの物質性を際立たせる手法だからだ。その線や色しか残らなくなってなお、観る者の感情に訴えかけることのできる何か、それを取り出そうという営みなのだ。

まずは心に残った作品の一部を。

アプストラクト・ペインティング(865-2)
アブストラクト・ペインティング(778-4)

アブストラクト・ペインティングという手法をとった作品。いわゆる抽象画だ。こうしてみると、東洋の陶磁器の模様に似ていないだろうか。
陶磁器も釉薬をかけて、その火や熱による偶然の化学反応によって模様を表出させる。かつての職人らは、そこに自然や神仏を見出していた。

リヒターは、極力自身の恣意性を排除し偶然性に委ねる方法をとっている。それ自体はいわゆるシュールレアリスムの無意識性に真の芸術性を求める志向から変わらぬ現代芸術の一つの柱だろう。しかし、リヒターの場合にはもっと切実な体験も関係しているのではないか。

彼は1932年ドイツに生まれた。東部ドレスデンからベルリン、そして西ドイツのケルンへと居を移してきたのだが、彼の前半生で目の当たりにしてきた事物から得たものは、人間の理性に対する疑義だったのではないだろうか。
古来より芸術では神や人間に対する賛歌を表現してきた。しかし、神は死んだと19世紀末にニーチェは言い、変わる人間も祖国ドイツからヒトラーという巨悪を生み出した。果たして人間とはそこまで寄るべき存在なのか。そう疑問を呈したとしてもおかしくはない。
だからこそ、人為を排し偶然に委ねる、そういう道を選んだのではないか。

偶然性に任せた作品を提示するというのは、一見きわめて無責任性を感じる。
しかし作品のどれを、どの段階で、了として鑑賞者へ提示するか。そのいわゆる目利きの部分は残されている。意味のない線や色、それが観るものの琴線に触れえるかどうかという境目を見極めて、そのぎりぎりを掬い上げる。その行為には、逆説的に人間に対する深い洞察や共感を持ち得ていなければ為し得ないものだ。そうして提示した作品により、我々は歓びや哀しみ、不安や憤りといった感情を喚起させられるが故に、ひとりひとりに寄り添った作品かのように感じ、多くの大衆に支持される巨匠たり得るのだろう。

さて、そんな巨匠の作品。自分はどう見たらよいのか。
それはもう、ただ「見る」だけだ。作品自体には意味はない。深読みも不要。それこそリヒターがもっとも忌避したことなのだから。
ただし、ただ「見る」ことによって自分の心はどう動いたか、ざわついたか。それを丁寧に観察することだ。作品を見るのではなく、自分の心を見る。それがあるべき鑑賞の方法なのだと、今の自分には理解したのだ。

と、いろいろ能書きは書いてみたが、実際にはなかなか自分と対話するのは難しい。
次はもっと心穏やかな時に足を運ぶことにしよう。

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