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死生観と信仰~「アンディ・ウォーホル・キョウト」

京都で開催中のアンディ・ウォーホルの展覧会に行ってきた。
関東圏に巡回するか分からなかったので、久々に京都まで足を伸ばしてみた。

ウォーホルの展覧会は8年前に東京でも開催されている。
当時の感想としては、キャッチーだけどなんだかよくわからないなあというものだったと記憶している。

今回の京都での展覧会は、当時と重なっている展示作品も少なくないようなのだが、コンセプトがかなり明確であった印象である。

ウォーホルというと、メディアへの露出は多くはあったが捉えどころのない、謎多きアーティストというのが一般的なイメージではないだろうか。それが彼の神秘性・芸術性にも繋がっているとは思うが。
今回の特に後半パートでは、彼の死への向き合い方についてクローズアップしていたことが、一つの捉え方として軸となり得たように感じた。

三つのマリリン

彼が有名人のポートレイトの作品を制作するきっかけとなったのが、マリリン・モンローの死だという。一人の人間としては死すとも、世間に流布した”イメージ”としてのマリリンは永遠だということか。

タイトルは忘れたが、二重のエルヴィスである。
彼の作品の特徴の一つは、イメージの固着化ではなかろうか。最近映画も公開されたが、エルヴィスというとやはりどこか悪くてそれでいてみなが憧れるような存在。そんなタフなアメリカ男性のシンボルであり続けることが、エルヴィス足る所以なのだろう。

頭蓋骨のある自画像

フランシス・ベーコンを彷彿とさせると感じたのは自分だけか。それにしても彼には珍しくストレートな作品である。

最後の晩餐

あまり喧伝されてはいないが、彼は敬虔なクリスチャンで教会にも生涯通い続けたという。バイクとキリスト。そして中央に大きく描かれる699の値札。彼は作品の観たままで受け取られることを好んだようだが、どうしても深読みしたくなるほどにモチーフが散りばめられている。


キャンベル・スープ

こうしてみると、有名なこのキャンベルスープもまた違って感じられはしないだろうか。東方キリスト教から連綿と伝わっているイコンも、キリストの”イメージ”を絵画にしたものだ。我々の信仰とは詰まるところイメージに過ぎないとも言えるし、逆にイメージも信仰になり得るということか。
だとすれば、無宗教の時代なんて言葉が軽々しく使われる昨今、あまりに人間に無知なことを曝け出しているということなのだろう。

京都まで足を伸ばした甲斐のある、充実の展覧会であった。

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