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長野の怪人・保科五無斎

 明治40年、長野県のある小学校に、乞食のようなボロをまとい、赤塗りの大八車を引っ張って、物売りの中年男がやってきた。
 車には「筆墨行商、保科五無斎、時々出張」「筆を買えまた墨をかえさなくては五無斎ついにうえや志ぬらむ」「我国で名物男見立つれば保科五無斎伊藤博文」と雄渾に墨書された幟が立っている。
 五尺六寸(175cm)の大兵肥満、いかつい髭面に鋭い眼光。その男は、さっさと校長室へ入り込むと「おう、校長はいるか?俺は昼飯をまだやっとらんぞ!」と怒鳴った。
 新人の教員や事務員が、すわキチガイかと職員室から校長室をのぞき込む。すると日ごろ豪気をもって鳴る校長が、腰を低くしてその汚い大男を遇しているではないか。
 大男は校長の給する弁当を食べ終えると、大八車に積んでた筆墨を職員室に運び込み、押し売りを始めた。校長が大男の後ろから職員たちに買え買えとすすめてくるのだから、売れぬはずがない。教員たちがしぶしぶ買っていると、大男…五無斎はにやにやと笑いながら、三文短冊に狂歌らしいものを揮毫して、買った者に与えた。それが片付くと講義室に全職員が集められ、その汚い男の汚い言葉で語られる「ニギリキン式教授法」というのを聞かされたのだった。
 「いいかぁー諸君!先生は黒板に長々と能書きを書き連ねたり、暗記を強要させる授業などやらずともよいっ!生徒には科学的資料…つまり標本を与え、みずから見て、感じ、考るにまかせるのだ!さすれば、子供たちは先生よりも高い次元において、勝手に理解し、成長していくのである。学問はすべてこのような実地教育を徹底させるべきなのだ。それが実学だ!先生はそのあいだ、ふところ手して、金玉を握って立っていればそれでよいっ…!」
 下品で挑発的な口ぶりではあったが、明治後期にすでに蔓延していた教科書素読や板書一辺倒、試験点数至上主義に飽き飽きしてた若き教員たちは、その斬新な教育論に大いに刺激を受けた。
 一方で頭には大きな疑問がうずまく。学校内では神に等しい校長にも頭を下げさせ、押し売りしながら教育について一席ぶつ、ルンペンまがいのこの男は、果たしていったい何者か…?

 保科五無斎、本名は保科百助。明治元年、長野県は蓼科山のふもと、横鳥村(現在の立科町)に生まれた。
 彼の家族は短命な気質で、祖父母も父も、幼いころには亡くなっていた。優しい母に甘えるマザコン少年として育つが、その母も百助が19歳のころに早逝してしまう。一家は年の離れた秀才の兄が継ぎ、百助の生活を支えてくれた。しかし奇抜で激情家の百助と、儒学の教授であり実直で冷厳な性格の兄はそりが合わず、辛酸をなめることも多かった。
 百助は山部村小学校を卒業後に代用教員として働いていたが、広い世界を見てこようと一念発起、松本の師範学校へ笈を負って出て行き、やがて学校自体が長野市へ移り猛勉強に励んだ。長野師範学校は、いまの信州大学である。
 だが百助の勉強はいわゆる教員としての勉強ではなく、植物研究のフィールドワークであった。好んで自然科学関係の英文原書をあさり、余暇のすべてをあげて学友との植物採集に出かけて行った。原書に出てくる図例を、己の目で、日本の風物として突き止めたかった。漢文の座学では優秀な兄に見下されることしかなかった百助だったが、全身で真理を探っていく実地の学問にこそ、魅力を見出したのだった。
 師範学校を出て方々の小学校教員を転々としながら、植物採集は昆虫採集に代わり、やがて興味は岩石・鉱物に変わる。
 岩石の標本のコレクションというのはすべての採集のなかでも特に難しく、かつ高度なものである。重い鉄槌と巨大な袋をもって山野を跳梁し、これという岩を打ち壊して切り出してくる。容貌魁偉な百助にこそ向いた実地研究であった。
 教員生活のかたわら、採集した岩石標本の研究発表にも精を出し、地質学者としても活躍しはじめた。そのころの理科教育はもちろん、日本全体においても石の価値というものを何も感じていなかったので、百助の独学による英米岩石学の知識は、規模の小さな日本地質学会において大きな驚異だった。

 明治29年4月、つまり29歳、百助はようやく武石小学校の校長となった。
 今の感覚だと三十路手前で校長になるのが「ようやく」というのは不思議に感じるが、明治中葉の長野県教育界は、長野師範学校出身者の完全な独裁下にあり、師範校生は新卒で校長職として赴任するのが普通だったのである。
 したがって明治24年に師範を出てから29年まで5年間、へき地の平教員でうろうろしていた百助は、長野師範の傍流も傍流であった。

 百助が傍流の人間・反骨の教育者として生涯を送ることになったきっかけは古く、明治19年の師範学校在学中に芽生えていた。その当時、師範出の教員は卒業の成績で役柄任地を決められていたが、さらにひどいのは初任給にも額差がつけられた。入学当初から実地研究ばかりしてた百助の成績は最低という情勢にあったので、彼が提唱者となって卒業生の棒給平等運動をおこしたのだった。これは日本最初の学生ストライキともいわれる。
 結局はその運動も実を結ばず、百助は校内第一の要注意人物とあいなり、その折り紙は終生ついてまわることになった。保科百助が生涯を通じて、信濃教育のメインストリームにたて突き通すことになるきっかけだった。

 校長となった百助は、「学校新聞」というのを編集印刷して配布した。これは学校と保護者相互の理解協力をはかろうとして刊行したものだったが、送り出した新聞は新聞法のうえで怪文書ということになり没収、彼は新聞法違反で処罰されることとなった。好意のうえで行ったことが罰せられたことに、百助は大きなショックを受けた。
 「俺がいったいどんな悪事をしたっていうんだ。人の善意や行為というものを、こうも簡単にへし折って平然としてる、信州人ふうの澄ました学識とか教養というものは、一体、どういう了見なんだ!」
 百助はその怒りを、反骨心を教育のために研ぎ澄ましていった。
 「俺はどこまでも抵抗してやる。暗い教室の座学、古臭い知識、記憶のカスなんぞに何の価値がある。あんなものにしがみ付いたところで、必死に生きる者に冷たくする人間しか育てないのがよく分かった」
 「実学こそ教育の基礎だ。おれは思うままに教え、生きてやる…!」

 百助はいよいよ奮い立ち、機織り・染色・養蜂・植林・治水、村のあらゆる産業的な学習について、村民の先頭に立って飛び歩いた。当時、山村の民はお蚕様を辛苦の末にとっても、みんな繭買いや仲買人に買いたたかれて、いたずらに製糸業者や機業家を肥やすのみだったからだ。
 百助は織物先進地である桐生や足利を走り回り、製糸機械や技術を自ら学び持ち帰り、村民たちに根付かせるため渾身の努力をはらった。しかしなにぶんにも村全体に意欲がなかった。
 どこの村へ左遷されても、「今度の校長は元気だね」と歓迎されながら、やがてうるさがられて次へ流されたのだった。


 明治32年、上水内郡の善光寺平、大豆島村の学校へと保科百助はやってきた。
 北信濃は特殊部落…壬申の新戸籍で新平民とされた人たちの住む部落の多いところである。部落民は村の機構外で、むろん部落の学童も本校へ入れられず、分校として別の特殊学校を作っていた。百助にとってこれは、天人ともに許せぬ罪悪に見えた。就任するとたちまちその特殊学校を閉鎖して、そこの児童を本校の生徒にすることとした。
 村は蜂の巣をつついたような騒ぎになり、「エタが平民と同じ学校などけしからん」「新校長は何を考えているのか」と、村民はみなムシロ旗を立てて学校に押し寄せてきた。百助は団交にきた村長と小学校の玄関で大口論になり、村民環視のなか村長の横っ面を殴り飛ばしてしまった。
 村長は家に担がれ、村民が狂犬のような校長に恐れをなす中、当の部落民は一向に気勢が上がらない。それどころか、二者のあいだに立って「自分たちが我慢すれば良いのだから、まあまあ…」と、ただウロウロするばかりであった。
 「ふむ、エタどもに勇気がないのは、長い屈従の慣習と、確固たる生産がないためだろう。大事なのは生産だ。村そのものが豊かにならねばならないんだ!」
 そう考えた百助は、ある日に部落民たちを学校に集めると、グラウンドを手始めに校内のあちこちを掘り返さして、叱咤激励、植林を始めたのである。
 「お前ら、生きる尊さがどんなものか、こうして知るんだ!」
 しかし部落民は百助を全面支持せず、村長側について裏切るものが続出した。平等を求める運動は一転して、校長排斥運動になってしまったのである。「事を荒立ててなんになる、おれたちの血統がハッキリするだけだ」というのが彼らの考えであった。
 百助は四面楚歌となりながらも、それに屈しなかった。蚕業の振興をはかったり、村人の労働条件の向上や副業の奨励などに寝食を投げて奔走した。小学校の校長は学校に座っていること少なく、真っ黒になって村中をわめきまわった。東に葬儀があれば行って大声でむせび泣き、西に婚礼があれば行って大酒を飲み破顔一笑、夜を徹して人の幸せを祝った。
 それでも結局、百助は2年経経たずして更迭されてしまったのであった。


 明治33年10月、蓼科小学校・蓼科農学校(現蓼科高校)の校長として百助は郷里に帰ってきた。相変わらず鉱物標本を蒐集してパリ万博に出品してみたり、学校の大講堂建設に挺身したりと活動してたが、ふと自分のしていることがむなしくなった。
 (俺は岩石鉱物が好きで好きで、どうしても研究したい気持ちをおさえて、今まで世のため人のためを思って仕事をしてきた。しかしそれが一体なんの価値があったろうか。だれも俺についてくる者がいない。家に帰ったところで、伴侶すらいない、誰も俺を待つ者、求める者がいない…)
 教員になってすぐのころ、人から紹介された娘となんとなく婚約に至ったことはあった。しかし百助はその女と二度目にあったとき、体中に鳥肌を立てて逃げ出してしまい、婚約もそれきりになってしまった。ある夜ひそかに長久保新町(現・長和町)の廓にもかよってみたが、どうしても女を前にすると竦んでしまう。若い女の顔を見ると亡き母の面影がダブり、彼の心のひだへ冷たい粘液が這うように苦しめるのだった。
 女や家庭と断絶し、仕事でも満たされぬ己の人生に孤独を感じるとき、気絶するまで酒に酔うのが百助の常だった。
 しかしそれでも間に合わぬ淋しさにおそわれたその日、百助は「この十年、人の子を賊(そこな)いたること少なからず」という一文を付けた辞職願を出して、そのまま生家へこもってしまう。

 明治34年5月、彼が再び世の人々の前に姿を現したとき、保科百助は保科五無斎となっていた。
 「石屋五無斎」と号して染めた印半纏に腹掛姿、ゲートル巻きにわらじ履き、麦わら帽をかぶった髭面の大男は、知人友人たちから金を募り、全信州を鉱石採取の旅に出たのだった。
 この知人たちからの義援はなかなかひどいもので、当初は借りるという名目で一人20円から50円(1円=おおよそ現代の2万円)ほどをなかば強要して集めた後、最終的に寄付に名目替えさせていたという。
 五無斎は行く先々で鉱脈を見つけると、岩石をA5サイズていどの大きさに各種100個たたき出した。その日得たサンプルは大八車いっぱいに詰め込み、宿に運び込んでは友人宅に送る、ということを繰り返す。じつに気の遠くなるような労力である。
 岩脈は断崖や深淵にあることも多く、その運び出しは困難を極めた。中山道・和田峠の下り坂では、岩石を積み込んだ大八車のブレーキがきかず、崖のカーブ毎に山側へ突っ込んで止まらざるをえなかった。血みどろで宿にたどり着いた五無斎の姿が、下諏訪町樋橋で伝えられている。
 気が遠くなるのは五無斎だけでなく、その岩を送り付けられた友人たちもだった。
 中沢照琳は五無斎の親友で、義援金筆頭として50円を申し込んだが、着払いで送られてくる岩石の運賃はたちまち百円を超えた。
 長野高等女学校校長の渡辺敏は信州教育の重鎮であり、五無斎の数少ない理解者であったが、標本置き場として校内の空き地を提供したところ、最終的にグラウンド全体が岩石で埋め尽くされてしまった。

 五無斎は第一回の旅を終えると、その岩石群を整理し解説を加え、理科教育の標本として県内の各学校へ寄贈した。時の県知事からは賞状をもらい、各地の学校で五無斎の講演会が開かれた。しかし彼の本当の関心としては、自分が偉くなることでなく、自分の寄贈した岩石標本が教育上どう使われるかということだった。残念ながら、実際には中学校でいくらか授業に用いられた程度で、あまつさえ小学校では全く使用されなかった。

 「おれは、間違ったかな」

 五無斎の狙いは岩石に限らず、県産の貝類・昆虫・魚類・獣類・菌類・植物・野菜・肥料・病原菌・化石・古器物などあらゆる種類のものを集めた博物館を造立し、それを活用した実学の教育を確立することであった。しかし、あれだけ心血を注いだ岩石だけの標本作成の反響は、あまりにさみしかった。

 しかしそこで発奮するのが五無斎であった。
 明治37年、五無斎は長野市長門町に「私立速成中学校保科塾」を開校した。教師陣は自分と同じく信濃教育会からのはみ出し者となった俊英たちをかき集め、渾身の情熱を注ぎ込んで談論風発とした学校を切り開いた。しかしこの理想的な学校は、理想的であるがゆえの破綻の芽を開校当初から秘めていた。
 建学の精神第一条には「貧困により中等教育を完全に受けられぬ不幸な青少年のための学校であること」という旨が掲げられていた。そこで肝心の月謝について、授業料月2銭から100円まで、どれを選んでも良いということにしていた。だれだって100円より2銭が良いにきまっているので、とたんに資金はショートし始めた。
 五無斎はあわてて下限を5銭に引き上げることにしたが、いかに明治と言えど孤立無援の学舎の経営がまかなえるはずがなかった。当時は私学振興法などという法的関心も存在しなかったので、破滅的な財政を賄うには、五無斎がどこかから剥奪してくるしかなかった。
 さらに五無斎の教育理念のひとつに「小中高大学の授業料は全廃し、教科書学用品は公費で支弁すべき」というものがあり、それをこの学校で自ら実践していった。立派と言えば立派であるが、あまりにも時代を先取りしすぎた無謀な理想でもあった。五無斎の夢物語、もとい先進的な理念は、他にも多くある。

 曰く、「小学校における一学級生徒数の縮小を県是とすべし」。
 まさに現今の日本教育界の課題である。
 曰く、「修身科を廃止せよ」。
 日露戦争の前においてである。
 曰く、「数千人の教師を満韓に送り、十か年ほど彼の地の自然・風物・習俗を研究せしめて、文化的素地を作り、のち数万の貧窮者を送るべし」。
 後年、日本は武力でこれをやった。
 曰く、「信濃教育会付属図書館を建設すべし。手始めに図書の収集。まず、隗より始むべし」。
 これについても五無斎は実践した。

 彼は自分の一切の図書、それも命より大切にしていたジェームズ・デーナ著「地質学原論」はじめ、虎の子の原書も図書館のために投げ出し、自分の行動範囲のあらゆる知人の間を大八車を引いて襲撃し、書物を強奪して回った。令兄・丈之助の漢籍などもことごとく持ち出された。
 そうした勇み足をさらに追いかけて、朝鮮人やその他苦学生のために塾の門戸を開いた。半年足らずで塾生は140人以上もあつまり、学舎の賑やかさはますます増して行った。しかし、志は立派であったが、授業料の徴収ままならぬ保科塾舎の経営は、早々に崖っぷちに来てしまった。
 五無斎は学校の広い庭と池を利用するため、家鴨を飼い始めた。これによって保科塾の破綻寸前の危機を救う絶対の自信があった。たしかに鴨は増殖して、肉はよく売れた。
 しかし友ありて遠方より来ると、販売用の鴨はたちまち私的な酒の肴と化けた。それは一度や二度でなく、最終的にあれだけ居た鴨の多くは五無斎とその友人たちの胃袋の中に消えた。
 こうして明治三十九年八月、とうとう刀折れ矢は尽き、保科塾はその輝かしい短い生命を負えることとなった。


 保科学校が廃業したちょうどそのころ、保科五無斎は読売新聞社主催の「日本百奇人コンクール」で第一位に当選した。五無斎の思想や行動は、先覚的な教育者としての評価でなく、奇人変人半キチガイの面白い人物という評価であったことを示している。
 五無斎は賞金として贈られてきた百円を横目に見ながら、自分の努力の報われなさに気が抜けて、その気分を狂歌にたくした。アイロニーに昇華することだけが、五無斎の気持ちを慰めた。

 学びこそ今はあだなれこれなくば
   好配偶もありとぞ思う

 年取ってみれば無闇と思うかな
   此の世でどうか嬶をほしなと


 明治四十年になると、五無斎はふたたび志をたてた。今度こそ背水の陣であった。
 まず上京して九段下の筆商店・玉川堂と特約し、またその紹介で奈良古梅園の墨を委託され、赤塗の大八車に積んで行商をはじめたのである。
 むろん行商が目的ではなく、岩石採取旅行の手段とであった。
 この真っ赤な大八車には、「筆墨行商、保科五無斎、時々出張」「筆を買えまた墨をかえさなくては五無斎ついにうえや志ぬらむ」などと書いた幟旗をたてた。こうして本文の冒頭の通り、五無斎は各地の学校などに押しかけては岩石採取のための資金を調達したのだった。
 それぞれの学校では、珍客としての扱いと、厄介払いの扱いと両方あったようである。なにしろ長野師範開闢以来の大暴れ法師なので、その強面ぶりは教育界上層部であるほど知れ渡っており、うかつに対応してどんな目にあうか分かったものではなかった。一度ゴム来たるという伝令が飛べば、沿道の教育者はみな顔をしかめつつも、一応の覚悟をして出迎えたのだった。

 講演を頼まれて後、酒好きの教員たちと夜更けまで飲んだり、毒づいたりして次の町へ行く日もあれば、岩石鉱物の山地では数日にわたって滞在して採集することもあった。
 夜ごとの酒宴には事欠かなかったが、心から歓迎されているとは自分でも思っていなかったようである。それだけに、あるとき上伊那郡飯島村で、村長や学校が鉱物標本寄贈のお礼として、大歓迎宴会を開いてくれたときの喜びようは大変なもので、「うれしき事限りなし、万々歳、万々歳」と日記に書き残している。

 夜の宿では相部屋の人によく話しかけていたらしく、地の底を這う生活を送る、様々な旅人たちの話を書き留めている。諏訪湖のタニシ売り、木地師、山師、香具師、行者、巡礼…。
 五無斎は社会的地位の高い強者に対しては常に辛辣で苛烈であったが、貧しい者や弱い者には、常にあたたかい眼差しをおくっていた。


 そんな生活をつづけた明治43年の5月25日。標本の箱詰めをしている最中、五無斎は突如として倒れた。
 そのままこんこんと眠り続けて31日、集金に来た酒屋がこれを発見、日赤長野病院にかつぎこんだ。診断は脳動脈栓塞。そしてさらに一週間、五無斎は眠り続けた。
 彼の死の床へは、その志を理解してた友人たちや、恩師でもある渡辺敏、ともに酒を酌み交わした教員たちが押しかけた。それだけでなく、長野県知事大山綱昌(昔五無斎に殴られかけた)はじめ、生前彼と関わった長野県政財界のお歴々など、たくさんの人々が見舞いに来た。
 大きないびきをかいて眠り続ける彼を見ると、病室から出てくる貴顕紳士たちの表情は少しホっとしていた。
 その表情の意味するところは複雑で、死に瀕してるわりには呑気そうな、いつもの五無斎のようで安心したのもあったし、もうこのまま目覚めないかもと思うと、ようやく長野教育界も一息つけるか、という気持ちもあった。学問を愛することで名だたる長野県であっても、五無斎のバイタリティにはついていけなかったのである。
 戦後になってようやく、保科五無斎百助先生を啓する声は盛んになり、追悼座談会が催されたり全集本が刊行された。しかし肝心の実学教育の芽は、五無斎が生きてた時代に伸ばせなかったことで、その命運が決まっていたのだった。

 こうして五無斎は、明治ひと時代をちょうど生き抜いて消えた。

 結局のところ、五無斎は儒学を学ぶ生真面目な家に生まれた、実に生真面目な男であった。それゆえに、彼の見た夢は皮肉で不埒で奔放で、どこまでも情熱的だった。
 しかし現実世界の方には、彼の夢が持っていた風流や愛嬌、価値観の逆転による祝祭的な詩情が、当然のことながらまったくなかった。
 現実に対して否を突きつける行動手段は、まずテロである。次に自殺だ。
 五無斎は偽装テロないし模擬クーデターを繰り返し起こし、人々を騒がす事に成功した。
 優雅で洒落ていた彼は、最後に模擬自殺として眠り続けることで、乱雑で愛想の無い現実に否を示した。
 自分の夢を守ろうとするならば、もはや眠るしかなかったのである。

  五無斎の墓は立科町の津金寺にて、静かに佇んでいる。


 我死なば佐久の山部へ送るべし
   焼いてなりとも生でなりとも
 ゆっくりと娑婆で暮らしてさておいて
   わしは一ト足チョイトお先
           保科五無斎

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