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長野の怪人・保科五無斎

 明治40年、長野県のある小学校に、乞食のようなボロをまとい、赤塗りの大八車を引っ張って、物売りの中年男がやってきた。  車には「筆墨行商、保科五無斎、時々出張」「筆を買えまた墨をかえさなくては五無斎ついにうえや志ぬらむ」「我国で名物男見立つれば保科五無斎伊藤博文」と雄渾に墨書された幟が立っている。  五尺六寸(175cm)の大兵肥満、いかつい髭面に鋭い眼光。その男は、さっさと校長室へ入り込むと「おう、校長はいるか?俺は昼飯をまだやっとらんぞ!」と怒鳴った。  新人の教員や事

    • ノーヴァヤ・ゼムリャのネネツ ティコ・ウィルコ

       ソ連時代のモスフィルム制作の映画の一つに「偉大なるサモエード(Великий самоед)」という作品があった。  映画の舞台は20世紀初頭のノーヴァヤ・ゼムリャ島。ここで生まれ育った少数民族ネネツの少年が、ロシア人探検家たちと出会うことから物語は始まる。  探検家によって主人公の少年はその美術的才能が見出され、モスクワの芸術学校に留学し、次々と新しいものを吸収していく。  しかし故郷の兄の訃報が届くと、主人公はネネツの慣習に従って兄の妻と結婚して一族を率いねばならず、

      • 八丈島の流人・近藤富蔵

        ・罪人、富蔵  文政十年(1827年)四月二十六日。太陽暦でいうと五月末頃、江戸・永代橋のふもとから、八丈島へ島流しにされる罪人たちを乗せた船が、川を下っていった。  その船に、近藤富蔵という二十三歳になる若者が乗っていた。大きな身体をしているが、いかにも大人しそうで、ものやわからかな顔つきの青年である。  犯した罪は、殺人だった。  彼の父親は近藤重蔵と言う武士で、江戸時代の終わり頃に蝦夷地の探検家として名を知られ、奉行としても学者としても一流の人物だった。しかし重蔵も

        • 津軽の奇人・漫遊仙人

          白衣に頭巾。法螺貝に錫杖。オーソドックスな山伏スタイルながら、漫遊仙人の格好は明らかに異様だ。肩にかける結袈裟のかわりに「津軽岩木スカイライン」と書かれたタスキをかけている。 彼は小山内漫遊。津軽では「漫遊仙人」という名で知られた山伏。…それも、明らかなインチキ山伏だ。 仙人は祭りごとがあれば呼ばれて無くても飛んでくる。祭が盛り上がった最高潮にやってきて、出鱈目な九字を切って説法を叫び、ジョンガラ節を歌う。なにもかもが、正式な修行を積んだ山伏とは明らかに違う。沸き立った観衆

        長野の怪人・保科五無斎