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文学の値段(越川芳明)

 キューバのハバナへの旅は長期滞在になってしまうが、旅の目的が特殊なだけに仕方ない。二〇一三年にアフロキューバの信仰のひとつ、サンテリアのババラウォ(最高司祭)になるための修行をしてから、その技を磨くべく自分の師匠のもとに通っている。


ところで、最近になって師匠がハバナの中心街から遠く離れたマリアナオという地区に引っ越ししてしまったので、僕もそちらに寄宿することになり、なかなか繁華街に行けなくなってしまった。

ハバナ市街の散歩

それでも、悲しいかな、僕は一ヶ月の滞在のうちに一度ぐらいは観光客的な誘惑にとらわれてしまう。乗り合いタクシーに乗って三十分ほどかけて、「アバナ・ビエハ」と呼ばれる繁華街を訪れたくなるのだ。ルートはだいたい決まっている。乗り合いタクシーを中心街(他の地区からタクシーに乗るときは、ここを「ハバナ」と呼ぶ)の終点で降りたら、プラードと呼ばれる遊歩道へつづく道路の南のはずれにある、高級ホテル「サラトガ」の二階のラウンジに向かう。ここはひんやりと冷房が効いていて、しかも壁に電源のコンセントもついているので、ラップトップをもち込んで原稿を書くには最適な空間なのだ。


この快適なラウンジでキーボードを打っていると、なぜか必ずスコールがやってきて、足止めを食らうことになる。でも別に急ぎ旅ではないので、しばしこの熱帯の共産国で、冷房という現代文明の悪弊にひたることにする。もちろん、僕のマリアナオの部屋にはエアコンなどない。


さて、雨がやんだら、次に向かうのは外国人観光客でごった返しているオビスポ通りだ。ハバナの銀座ともいうべきところだが、原宿の竹下通りみたいにとてもせまい。車も通行できない。ある意味、オビスポ通りは通俗的な場所で、観光客が喜びそうなレストランやお土産ものの店がメジロ押しである。

最初に目につくのは、バー「フロリディータ」だ。かの「文豪」ヘミングウェイが通ったという伝説の店は、いつ行ってみても外国人観光客で満員御礼。このバーの前を素通りして、僕は隣にある二軒の本屋に立ち寄ってみる。でも、なぜか触手をのばしたくなるような本に出合ったことがない。
でも、心配にはおよばない。キューバの知識人のあいだでは、まわし読みの文化が根づいているからだ。話題の新刊が売り切れてしまっても、複数の友達に話しておけば、どこからともなくくだんの本がまわってくるという。僕のような外国人には想像のつかない地下人脈ネットワークが張りめぐらされているのだ。


オビスポ通りをしばらく行くと、天井が高くシックな雰囲気を醸しだしているファヤド・ハミス書店が、砂漠のオアシスのように現れてくる。キューバの現代音楽やダンス、映画、絵画を論じる専門誌もいろいろ扱っているし、新刊本の品揃えはハバナ一かもしれない。しかも地元通貨のペソ払いなので、外国人にとってはとても安く、自分には読めるのかどうかわからないスペイン語の本をたくさん買い込んでしまう。

コーヒーと文学の値段の対比

ちなみに、村上春樹の翻訳は見たことがないが、日本の古典文学ならば、たまに見つけることもあり、これまでに『源氏物語』や芥川龍之介の短編集『地獄変とその他の短編』を買ったことがある。前者は「桐壺」や「空蝉」、「夕顔」など八章からなる抄訳だ。後者は、「地獄変」や「鼻」など十編からなる小ぶりの本だ。共に値段は八ペソで、日本円に換算すると三十円ちょっと。立ち飲み即席カフェのエスプレッソが一ペソ(約四円)なので、わが国の文化を代表する紫式部や芥川龍之介は、エスプレッソ八杯分ということになる。


ちなみに僕の敬愛するキューバの女性詩人ナンシー・モレホンの詩集が十ペソ(四十円)でエスプレッソ十杯分、キューバの二十世紀の国民詩人ニコラス・ギジェンの分厚い詩集が二十ペソ(八十円)でエスプレッソ二十杯分といった具合である。

そうした値段設定から、この国では日本(海外)文学は価値が低いとみなされているのかと思いきや、それは資本主義経済に毒された考え方で、キューバでは広く国民に享受してほしい「文化・知的財産」は、無償あるいは低額で提供するという政府の方針がある。

値段が安いということは、その分だけ文化的価値は高いということだ。映画館や野球場、美術館などは入場料が三ペソから五ペソ(十二円から二十円)で誰でも気軽に楽しめるし、いうまでもなく教育は小学校から大学まで無料である。


僕が最後に向かうのは、旧市街のはずれにあるカフェ・エスコリアルだ。ここだけは、ゆっくりとテラス席に座ってコーヒーを堪能することができる。薄暗い店内ではコーヒー豆の焙煎をしていて、香ばしい匂いが外にまで漂ってくる。

このカフェはサンドイッチやコーヒーが中心で、生バンド演奏もないので、フロリディータのような祝祭的な雰囲気はない。そうはいっても、支払いは兌換ペソ立てなので、地元の人は少ない。ちなみに、僕がここでよく注文するカフェ・オレは二兌換(だかん)ペソ(約二百二十円)。マリアナオの即席カフェのエスプレッソの五十五倍である。

(『すばる』集英社、2019年10月号、168-169頁)

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