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「いま未知のことでも、これから知ることの一部」とは、アフロキューバ信仰の占いに出てくる格言の一つだ。

いまはわからないことでも、いずれはわかるようになるという、占いの神・オルーラのお告げである。わたしは、この格言を含む運勢が出てくれることを願っている。


すでに前回に書いたが、2000年の初めに、わたしはロサンジェルスのエコパーク地区のセルヒオのアトリエを訪れていた。

だいたい夕方から夜にかけて、スーパーマーケットでビールの6パックを買いもとめ、それをお土産に寄る。特に用事がないときでも、というか、いつも特別な用事などないのだが、ぶらりと寄ってみる。セルヒオの知人や友人も、夕方になるとふらりとアトリエにやってくる。


あるとき、アンヘルがやってきた。メキシコシティから北西に車で8時間ほどいったところにあるミチョアカン州の出身だという。いまはギャングの抗争が激しい地域として有名になってしまったが、もともとは先住民の人口比率の多い州で、昔から伝統的な行事が行われているところだった。*(註1)


初めてアンヘルと会ったときから、純朴さと野性的な知性を兼ね備えた話し方をする彼を好きになってしまった。


アンヘルはドイツ人のギタリストのグレッグと組んで、新しい音楽を追及するバンドを作って、ボーカルを担当していた。

バンドの名前は「メスクラ」だった。活字としては、混合・混血という意味の「mexlaメスクラ」をもじって、「Mezklah」としていた。

彼らの音楽は、都会の洗練ではなく、むしろ都会の中の「野性」(その一つが人種や文化の混交だった)を表現しようとしていた。

アンヘルは手が器用で、ボディペインティングも見事にこなした。舞台にあがる前にグレッグと自分の体に、刺青のようにボディペインティングを施していた。*(註2)


北米や中南米の先住民の刺青が、彼らの哲学や宇宙観を表しているように、アンヘルのボディペインティングも、神々や先祖霊との交流をはじめ、いくつものスピリチュアルな意味があったはずである。


アンヘルが近々メキシコにツアーに出かけるといった。ちょうど、わたしもメキシコに行くところだった。当然、向こうで会おうという話になった。


オアハカとメキシコシティの公演を手伝うことした。手伝うといっても、わたしにできるのは、道具を運んだり、ヴィデオを撮ったりするなど、裏方の仕事である。

ひとつだけ、自慢できることがあるとすれば、セルヒオの知り合いのメキシコシティのサブカル誌の編集長にあらかじめ会って、いろいろと話しをした中で、メスクラの公演を伝えて、できれば、取材してほしい、と伝えておいたことだろうか。


すると、顔の広い編集長はメキシコの二大新聞の一つの文化部に連絡しておいてくれたのだった。おかげで新聞記者がメスクラの公演の前にインタビューに現われ、文化欄の紙面に大きくメスクラのことが載ったのだった。


オアハカの公演は、「カンデラ」というレストランでライブ形式でおこなわれた。

公演の前に忘れられないことがあった。バーのカウンターでビールを飲んでいたときだった。カウンターの向こうには、バーテンがひとりいて、客に酒を提供していた。客と言っても時間が早いので、わたしとメスクラの二人しかいなかった。


髭剃りあとの濃い顔をした、それほど身長も大きくないバーテンは、フアン・カルロスといった。

グアテマラとの国境をなすチアパス州の出身で、メキシコ最北の、アメリカとの国境の町メヒカリにも住んだことがあるらしかった。故郷の村は貧しく電気も来ていない。それで彼が働いて家族に仕送りしていた。


あるとき、フアン・カルロスがぼそっとわたしに言った。
「おれって、ハポっていうんだぜ」


彼は故郷の村では「ハポ」というニックネームで呼ばれていたという。スペイン語のハポネス(日本人)の短縮形だ。しかし、どう見ても彼は日本人には見えなかった。


わたしはあとで悔やんだ。

19世紀末の「榎本植民団」*(註3)がメキシコ南部をめざして、いくつもの悪条件が重なり、ちりぢりになってしまったことは本で読んで知っていた。だが、そのこととフアン・カルロスを結びつける想像力がなかった。ハポの村がなんという名前なのか、聞くことすらできなかった。


よく考えれば、彼の先祖は日本人だったのかもしれない。明治時代に「榎本植民団」がめざして挫折したのもチアパスのジャングルだったから。


数年後、それを確かめたくて、オアハカの「カンデラ」を訪ねたが、ハポには会えなかった。病気でしばらく休んでいるということだった。


その後、わたしはオアハカにいく機会を失ってしまった。
 アフロ信仰の「未知のこと、これから知ることの一部」というお告げは、まだ出ていない。

*註
(1)
ミチョアカン州の伝統的な行事としては、特に「死者の日」の祭りは有名である。10月31日から11日2日まで、夜中の墓地は、先祖の霊を迎える人たちでにぎわう。パッツクアロという町と近隣のハニツィオ島には海外からの観光客も大勢訪れる。また、当地は先住民の手製の仮面づくりも盛んであり、漫画家の水木しげるがユニークな死者の仮面を収集したことでも知られる。大泉実成、水木しげる『水木しげるの大冒険――幸福になるメキシコ 妖怪楽園案内』(祥伝社、1999年)

(2)
メスクラMezklahの演奏(蜘蛛のチャンゴー)は、このサイトで見られる。
(155) Mezklah - Chango Araña - YouTube

(3)
ブラジルよりもひと足早いメキシコへの日系移民ついては次の資料が詳しい。
*上野久『メキシコ榎本殖民――榎本武揚の理想と現実』(中公新書、1994年)
Alberto J.Matuxmoto 「メキシコ榎本殖民団に「海外移住の夢」を託した榎本武揚という人物 ― その1」 https://www.discovernikkei.org/en/journal/2019/3/13/takeaki-enomoto-1/ Posted 13 March, 2019. Viewed March 8, 2022.


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