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越川芳明 


 ハワイには身寄りも知り合いもいなかった。半年間滞在のビザを取得するために、どこの馬の骨かもわからない僕のために煩わしい労をとってくれたD教授は、コロナ禍でめったに大学のキャンパスを訪れることはなく、自宅で遠隔授業をしていた。

 D教授は僕がハワイに到着して二週間ぐらいたってから、マノア渓谷にあるベトナム料理店に招待してくれた。

 申し訳ないが、二ヶ月後には、学生たちを引率してイタリアに行くつもりだ、とD教授は言った。

 とんでもない、ハワイに来られたのはあなたのお陰です。あなたには、どれほど感謝しても、したりない気持ちです。そう僕は伝えた。

 食事のあと、D教授は広大なキャンパスを車で案内しながら、自分に何かしてほしいことはないですか、と訊いた。

 胸の中で、もうこれ以上D教授に手を煩わせたくない!と思いつつ、僕は頼んでいた。もし誰かご存知であれば、ゴルフのできる人を紹介していただけませんか?と。

 コロナ禍で、大学での催し物は、のきなみ中止を強いられていた。毎日、宿舎と図書館の往復では味気なさすぎる。実のところ、僕の願いは切実だった。

 ほどなくD教授はRさんを紹介してくれた。Rさんはゴルフ好きで、しかも退職したばかりだった。

 翌月から、Rさんの運転するピックアップトラックにゴルフバッグを積んで、ほぼ毎週一回オアフ島のゴルフ場をまわることになった。

 高速道路を飛ばしながら、Rさんは自分がハワイ島のヒロ市に近いペペオケオというサトウキビ農園(プランテーション)で生まれ育ったこと、農園の日本人キャンプのこと、日本人キャンプの「クミアイ(互助会)」や「ボンダンス(盆踊り)」のこと、父親がポルトガル人だったので農園の「監督」になれたこと、二度の来日体験で印象に残ったことなど、あれこれ話してくれた。

 僕も中島みゆきの「紫の桜」という歌にある、日系移民の人たちから「ハワイ桜」と呼ばれたジャカランダのことや、Rさん自身のポルトガルの祖先のこと、ご両親の移民体験のこと、ハワイ島で過ごした少年時代やオアフ島で過ごした大学時代のこと、ポルトガル系移民から見た太平洋戦争や真珠湾攻撃のことなど、そのときどきに話題になったことで、思いついたことをあれこれ質問させてもらった。

 Rさんのピックアップトラックは、いわば僕の「教室」だった。講師は「修辞学(レトリック)」を専門とする、気さくなハワイ大学の「名誉教授」だった。

 あるとき、僕は下の娘がハワイ名物だと教えてくれた、ポルトガル移民(マデイラ諸島)がハワイにもたらしたという揚げパン(マラサダス)で有名なお店の名前をあげた。

 すると、Rさんは「あそこはいつも観光客がたくさん並んでいるよ。昼でも夜でも。でも、一度行ってみるといい。作りたてのを一個でも売ってくれるから」と、言った。それから「ポルトガル・ソーセージは、食べたことがあるかい?」と、僕に訊いた。「いろんなブランドがあって、人それぞれ好みがあるから、どれが一番だとは言えないけど」と、付け加えた。Rさんによれば、これもポルトガル移民がハワイにもたらした、もうひとつの文化遺産らしかった。


 ある日の昼下がり、ハワイ大学の、ひと気のないマノア・キャンパスを歩いていたときだった。歩道の脇に大きな木が聳そびえていた。

 高さは十五メートル以上もあり、太く立派な枝も横に伸びている。

 最初、僕の目に止まったのは、木にいくつもなっている果実のほうだった。まるでラグビーボールを細長くしたような形で、長さはラグビーボールの二倍はありそうだった。

 ちょうど熱帯になるアボカドやマンゴの実と同じように、枝からいくつもの蔓(つる)が真下に伸びていて、蔓の先端に、それぞれ果実はぶら下がっていた。

巨大なソーセージのようだった。こんな異形の果実はこれまで見たことがなかった。

 木の根もとに小さなネームプレートが植っているのが見えた。

 僕は鉄柵を乗り越えて、木のそばまで行った。

 プレートには「キゲリア・アフリカーナ」と記(しる)されていた。「ソーセージの木(ソーセージ・ツリー)」という通称が、その下に添えてあった。

 あとで調べてみると、この巨大なソーセージの木はエチオピア産だった。エチオピアは、周知のようにアフリカ大陸の東側、ハワイ諸島よりも赤道に近いところにある。学名にある「キゲリア」は、「キゲリ・ケイア」という名称に由来し、それはモザンビークのバンツー族の言語らしかった。モザンビークは南半球にあるアフリカの国だが、赤道からの距離でいえば、ハワイと同じくらいだった。遠く離れたところで生きているこの植物に、なぜか興味が惹かれた。

 僕はネット検索しているパソコンの前で、ふと思った。

 どうしてこんな大きなアフリカの木が、太平洋のど真ん中にあるのだろうか。

 誰がいつどのような意図を持って、大学のキャンパスにこんな木を植えたのだろうか。

 ネットでちょっと調べただけでは、よくわからなかった。

 アフリカでそうであるように、鳥たちが種を運んできたのだろうか? アフリカ大陸から大西洋を経て南北アメリカ・カリブ海に向かい、そこから太平洋を経てハワイまで、約一万六千キロ。果たして、そんな長距離を移動する渡り鳥がいるのだろうか。

 文献によれば、季節に応じて、南北に旅する鳥はいるようだった。たとえば、ホッキョクアジサシという小鳥は夏に北極で子どもを産み、冬は南極で過ごすという。


ソーセージの木

 僕は巨木を見あげながら、ふといたずら心を起こして、地面にいくつも落下していたソーセージの実を靴で踏んでみた。

 コンクリートのように固くてビクともしなかった。

 そのひとつを両手で持ってみると、意外に重たい。

 アフリカでは、ゾウやキリンなどの動物や鳥がこのソーセージの中身を食べるようだ。動物たちは知っているのだ、この果肉の中に、自分たちの生命の維持に役立つ(抗炎症作用をもたらす)物質が含まれているのを。

 ヒトはこのソーセージを生で食べることはできない。繊維が多く、種も多いからだ。おまけに毒性があって、生で食べると下痢をおこすらしい。そこでアフリカでは手を加えて、健康食品に早変わりさせる。乾燥させてローストするか、発酵させたりするのだ。また、硬い殻は中の果肉を取りのぞき、乾燥させて容器として使う。


 前回、マノア渓谷の虹の話をしたが、殺害された美女の魂を救ってくれた人がふたりいたことを覚えていらっしゃるだろうか。美女のいとこと、通りかがりの若者のことである。

 美女のいとこは死んでいて、その霊がエレパイオという緑色の小鳥の姿をとり、力尽きたフクロウに代わって、美女の窮地をその両親に知らせたのだった。

 なぜエレパイオでなければならなかったのだろうか。

 エレパイオとは日本のスズメみたいな小鳥で、ハワイの固有種。朝から晩まで森の中でよく鳴くらしい。

 ハワイの神話では、鳥や動物は神々の化身と考えられているという。ハワイ先住民の想像力の中では、鳥や動物とは、神々や先祖霊の仮の姿なのである。

 マーサ・ベックウィズという文化人類学者によれば、「エレパイオはカヌーの製造者によって崇拝されている」という。カヌー製造者が森へ行き、木を選び、森の神々に祈るとき、エレパイオがやってきて、どういう動きをするかでカヌーにふさわしい木なのかどうかを占うのだ。(1)

  カヌーは、十八世紀にヨーロッパ人がやってくるまで、まわりを海に囲まれたハワイの人々にとって、唯一の交通手段だった。さらに魚を獲るのも、生活のための物資を輸送するのも、戦争におもむくのも、カヌーがなければならなかった。

  カヌーの製造は、一種の神事だった。製造者は「カフナ・カライ・ワー(Kahuna Kalai Wa‘a)」と呼ばれ、製造のさまざまな工程で儀式を取り仕切る司祭でもあり、その技術と知識は代々子孫に伝えられた。

  一例として、六メートルから九メートル近くもあるカヌーには、硬い「コアの木」が使われたが、どの木を選ぶべきか、「カフナ」はエレパイオ(製造者の守護女神)に助言をもらったのである。森の中で何時間もエレパイオの動きを観察し、エレパイオが嘴でつつく木を避けた。それらの木は中が腐っている可能性があったからだ。

いざ、伐り倒す木が決まると、助手たちとお清めの儀式をおこない、神々に生贄(豚)を捧げて、祈った。そして「カフナ」は「いま、汝は木なり。我が汝を伐れば、ヒトになる」と、チャントを歌った。(2)

 一方、マハナという名の若者は死んだ美女のそばを通りかかり、美女の魂がつぶやくのを聞く。そして、埋められていた美女の死体を発見して、モイリイリにある自分の家に運ぶ。この若者は、目に見えない存在(美女の魂)の声を聞くことができた。通常、そういったことは自発的に神がかり状態になれる巫者(ふしゃ)や巫女(みこ)の得意とするところである。あの若者も、美女を生き返らせた兄同様、巫者のひとりだったのかもしれない。

 問題はそこではない。むしろ、なぜ若者はモイリイリに住んでいたのか、ということである。これが僕の抱いたもうひとつの疑問であった。

 モイリイリは、僕の住んでいたマノア渓谷より少しだけ下のほうにある地区だ。大学キャンパスの西側を走っているユニヴァーシティ街は、ハイウェイ一号線の高架下をくぐると、すぐに大きな商業道路であるサウス・キング通りと交差する。そのあたりがモイリイリである。現在は、スーパーやオフィスやクリニックなどが建ち並ぶ、にぎやかだが、ごく平凡なビジネス地区だ。

 ハワイに来て数ヶ月後に、僕はアジア系の人たちの朝食会にいくために、何度もそこでバスを乗り継いでいた。

 ユニヴァーシティ街とサウス・キング通りの交差点の近くに、芝生の生い茂る空き地がある。ぶらんこや子供たちのための乗り物も何もない、そんな殺風景な空き地に度肝を抜かれるような、大きく立派な鳥居が建っている。近寄って見てみると、コンクリート製で、中央の神額(しんがく)には「厳島神社」と書かれていた。

 どうしてこんなところに鳥居があるのだろうか。僕は調べてみることにした。

 周知のように、ハワイに日本人が初めて渡ったのは、一八六八(明治元)年のことである。「元年者(がんねんもの)」と呼ばれる約百五十名のほとんどが一種の「違法移民」だった。明治新政府は渡航印章(旅券)を発給しなかったからだ。だが、横浜にいたハワイ王国の領事が集めた日本人を船に乗せて連れていってしまった。

 その後、一八八五(明治十八)年に、日本政府は「官約移民」を送りだす。「移民」と呼ばれていたが、ハワイに移り住むのではなく、日本への帰国を想定した、一種の出稼ぎだった。三年間、サトウキビ畑で働いて、渡航費などを返す契約を結んだ日本人は、十年で三万人にも及んだという。

 モイリイリ地区は、ホノルルのダウンタウン(チャイナタウン)から東に六キロほど離れたところにある。そんな僻地に最初に定住した日本人は山口県出身の柏原喜八夫妻だったという。一八九三(明治二十六)年、ハワイ島北部コハラのサトウキビ農園からやってきたらしい。四年後には、福岡県出身の松本菊太郎がやってきて採石業を創業した。ハワイ大学の一角には、かつて石切り場だった岩場が残っている。(3)

 二十世紀に入り、移民の契約労働が廃止されて、自由移民となった日本人が各地のサトウキビ農園から、この地区へと移住してくる。まもなく、一九〇六(明治三十九)年、日本人学校が創設された。この頃、四百名弱の日本人がモイリイリに住んでいたらしい。日本人にとっては、この名称は呼びづらかったとみえて、日本人のあいだでは「モイリリ」と呼ばれていた。

 二年後にはカピオラニ通りに面したところに日本人墓地が設立され、いまでも日系人の子孫が訪れて花や線香を手向けている。ここだけは、コウラウ火山の溶岩流(玄武岩)からなる硬い地盤で、農業には適していなかったようだ。

 一九二〇年代のモイリイリには、二千人の日本人が住み、肉屋、魚屋、薬屋、パン屋、理髪店、写真館など、日本人の商店が立ち並び、東本願寺や西本願寺の布教場もあったという。(4)

 サウス・ベレタニア街には、いま立派な日本文化センターが建っていて、日本人移民の歴史や文化から、戦時中のハワイにおける強制収容所のことまで知ることができる。

 現在、かつての日本人地区を彷彿とさせるものは、厳島神社の鳥居、日本文化センター、日本食品を扱う商店ぐらいしかないが、そうした日本文化の痕跡を通じて、サトウキビ農園で辛酸をなめながらも、ハワイの多文化主義に寄与してきた日本人移民の功績に思いを寄せることはできる。

 さて、モイリイリの語源は、ハワイ語で「トカゲ(モー)」+「小石(イリイリ)」である。もともとトカゲや小石の多い土地だったのだろうか。

 この地域は「カルスト地形」と呼ばれる石灰石の大地で、鍾乳洞があることで知られている。十万年前から一万一千年前にかけての間氷河期に、海面は現在より七メートルも上昇していた。この海面上昇により、モイリイリに石灰岩が堆積した。その後、海水が後退し、雨などによる侵食で、ところどころに石灰石が地表に露出した。

 それが小石(イリイリ)の由来かもしれない。さらに、地下にはマノア川の伏流水が流れ、水が溢れて湿地帯となり、ここは先住民の主食であるタロ芋を耕すのに最適な場所となった。

 そう考えると、神話の中で、死んだ美女の魂の声を聞くことができた、心根の優しい若者マハナが住むのに格好の場所だったと言える。しかも、そこは虹の王女の故郷であるマノア渓谷のすぐ近くだった。

 さらに、先祖霊をはじめ、ヒトや動植物の魂を尊ぶ明治時代の日本人たちが住まう場所としても、これほどふさわしい場所はなかったともいえる。

 

 人けのない大学図書館をあとにして、とっぷりと日が暮れた夜道を宿舎まで歩く。街灯のない住宅地を抜けて、ノエラニ小学校の裏手にあたる真っ暗な細道に入るとき、向こうから人影があらわれた。一瞬どきっとする。忘れてはいけない。ここは銃社会アメリカである。

 だが、向こうから「グッド・イーヴニング」と挨拶する女性の声が聞こえた。中年のカップルだった。夜のウォーキングをしているらしかった。こちらも同じように、こんばんはと挨拶して、通り過ぎた。昼のあいだに誰かが刈ったばかりらしい雑草の青い匂いがした。

 宿舎の二階にある自分の部屋の前に立つと、ドアの下に何か荷包みが置いてあった。中に入り、電気をつけて包みを解いてみると、中にはポルトガル・ソーセージの詰め合わせが入っていた。Rさんがわざわざ宅急便で送ってくれたようだった。(つづく)


(1) Martha Beckwith, Hawaiian Mythology, Honolulu: University of Hawaii Press,1970, p.91.

(2) Edgar Henriques, “Hawaiian Canoes,” The 34th Annual Report of the Hawaiian Historical Society, 1925, pp.15-19. Polynesian Voyaging Society. https://archive.hokulea.com/buildhenriques.html 06/22/2023.

(3) “Moiliili Japanese Cemetery,” Hawai‘i Historic Foundation. https://historichawaii.org/2019/02/22/2642-kapiolani-blvd-moiliili-japanese-cemetery/ 04/30/23.

(4) 飯田耕二郎『ホノルル日系人の歴史地理』ナカニシヤ出版、2013年、45-66頁。

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