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ヤンバルの村言葉(しまくとぅば)でも語れない沖縄戦の記憶 ――目取真俊の最新短編集『魂魄(こんぱく)の道』を読む

待望の新作短編集である。二〇一四年三月から二〇二二年五月までに商業誌に載った短編五つが収録されている。どれひとつを取ってみても、何度も推敲を繰り返したことがうかがわれる、エドガー・アラン・ポーの心理ミステリーばりの無駄のないハイブリッド(日本語と沖縄語)の文章で描かれた目取真ワールドが展開する。

共通するテーマは、沖縄戦の記憶だ。

北部ヤンバルの少年少女がかつて経験した沖縄戦を、目取真俊はどのように書いているのだろうか。

本作の掉尾を飾る「斥候」は、沖縄戦というお馴染みのテーマに、住民のおこなったスパイ活動という特殊な偏差を加えて語った傑作である。

南部の糸満で悲運の死を遂げたひめゆり学徒隊などと違い、沖縄でもこれまで明らかにされてこなかった「護郷隊(ごきょうたい)」の記憶の掘り起こしが注目に値する。

「護郷隊」をめぐっては、問題がいくつも指摘されている。ひとつに、十八歳未満の少年たちを軍国教育のもとで、事実上強制的に召集した。未熟な少年たちを容赦なく訓練して、ゲリラ活動(米軍キャンプの破壊工作、米軍の食糧の略奪、住民の中に「スパイ」がいないか情報を集めさせる)に専念させた。故郷の村を護るためだと信じた少年兵たちは、たとえば名護市の真喜屋や稲嶺の集落のように、自分のふるさとを焼き尽す体験をさせられた。

「斥候」の主人公は、勝昭という九十二歳の老人だ。二ヶ月前に「護郷隊」で一緒にゲリラ活動に従事した盛安から電話がかかってくる。かつて「鉄血勤皇隊員」だった勝造が亡くなった、と。三人とも同じ村の出身で十五歳のときに沖縄戦に巻き込まれたのだった。勝昭には、亡くなった勝造に打ち明けられない秘密があった。

護郷隊員の秘密

「護郷隊」については、すでにNHKをはじめとするマスメディアや、ジャーナリストの三上智恵がかつて隊員であった老人たちに「聞き取り」調査をおこなっている。だが、そういう「聞き取り」には盲点がある。

盲点とは何か? それは、「護郷隊」にかぎらず、自身の戦争体験を語る者は嘘をつくということである。嘘とは言えないまでも、カメラの前では言いたくない、あるいは言えないことがある。誰でも自分を悪者にしたくないからだ。まして、少年少女時代に沖縄戦を経験した人たちは、いまでは八十代、九十代の老人だ。

戦争の「聞き取り」調査では、往々にして「被害者」としての体験は語られやすいが、「加害者」としての体験は語られにくい。

「斥候」という小説は、そうした盲点を突く。「加害者」としての老人の内面を語るのだ。

かつて熱心な軍国少年だった勝昭は、愛国婦人会のメンバーでもあり軍国主義に染まった母親の密告を上官に伝えたことがあった。同じ村の勝造の父が米軍のスパイである、と。ただちに、勝造の父は日本軍兵士によってひそかに惨殺されてしまう。

戦後、勝昭は勝造を避けてきた。一度だけ勝造と会う機会があったが、かつて自分のおこなった密告のことは告白できなかった。

「勝昭の胸に怒りが込み上げてきた。勝造にすべてを打ち明けられなかった自分自身への怒りだけではない。大きな力で自分達を翻弄し、どんなにあがいてもどうしようもない、という無力感を強いるもの。その何かへの怒りは晴らしようがなかった。今さら話したところで何になる。その言葉が最後は胸の中に湧き上がり、深い無力感に陥っていく。それを繰り返してきた。その夜が勝造と話した最後になった」

七十七年ものあいだ、勝昭は自分の殻の内側に閉じこもらざるを得ず、そうした「無力感」を抱き続けてきた。

終わらない沖縄戦

勝昭がいう「大きな力で自分達を翻弄し、どんなにあがいてもどうしようもない、という無力感を強いるもの」は、沖縄戦で終わったわけではない。戦後、米軍占領統治下におかれ、「アメリカ世」と呼ばれた時代も、沖縄は冷戦下の米国の政治力学に翻弄された。一九七二年に日本に復帰してからも、沖縄の多くの土地は米軍基地に接収されたままで、日本にある米軍基地の面積の約七割を沖縄が占めている事態は変わらなかった。国土面積の一パーセントにも満たない沖縄が、なぜそれほどの負担を強いられるのか。そして、いまなおヤンバルの辺野古に普天間基地を移設するという日本政府の「暴挙」がまかり通っている。そうした歴史的変遷を踏まえれば、勝昭の絶望的な「無力感」はただひとりだけのものではない。ヤンバルの人たち、沖縄人の「怒り」や「無力感」にシンクロする。今もなお、もうひとつの「沖縄戦」はつづいているのである。

写真家・比嘉豊光は、千人以上の人に沖縄戦の体験をそれぞれ村(しま)の言葉(くとぅば)で語ってもらい、それを映像に撮り続けている。その映像人類学的・社会歴史学的な仕事は、「しまくとぅばで語る戦世(いくさゆ)」と呼ばれ、沖縄市民にとっての「沖縄戦」を後世に残す貴重な資料といえる。確かに、比嘉豊光のおこなっている仕事はかけがえのないものである。とはいえ、村の言葉であればこそ語られる沖縄戦もあれば、たとえ村の言葉であっても語りえない沖縄戦もある。

目取真の小説は、村言葉(しまくとぅば)であっても語りえない沖縄戦を小説家の想像力で「復元」し、それを読者に突きつける。現在も進行中の「沖縄戦」に目を向けよ、と言いたいかのように。

辺野古問題

目取真俊の小説の特徴は、地政学的に日本の周縁に追いやられている沖縄で、さらに周縁に追いやられている人間(老人・老女、子ども、障害者、ハンセン病患者、慰安婦、「不良」の少年少女)の視点から、アクチュアルな沖縄(ひいては日本)の問題を的確に抉えぐる点にある。

「闘魚(とーぃゆー)」という小説では、ヤンバルに暮らす八十四歳のカヨが主人公だ。本短編集でも、唯一女性(しかも老女)を主人公にしているということで注目に値する。

カヨは娘・和美に頼んで、辺野古基地の建設に反対しているデモ隊の運動を見せてもらうことにする。足が悪く杖を使わないと歩けない身だが、そうでなければ、デモに参加したい気持ちだった。なぜ思想的に過激ではない体の弱い老女が、そういう気持ちになったりするのだろうか? 

沖縄戦のとき、カヨは十一歳の少女だった。今から七十三年前のことだ。家族は母ウシと、七歳の弟勘吉と三歳の妹ミヨの四人で、一年前に父は病気で亡くなっていた。カヨたちの家族は山中の洞窟に隠れていたが、米軍に見つかり、村まで移動させられた。その後、カヨたちはトラックに乗せられて、「辺野古(ひぬく)」の収容所まで連れていかれた。

ある日、カヨと勘吉は、病気がちの母と妹のために、貝の汁を飲ませてやろうと収容所を抜け出し海岸に出た。岩場で巻貝を探しているうちに、勘吉が波にさらわれてしまった。カヨは無力だった。助けてやろうと思ったが、体が動かなかった。

「あの日、勘吉のことを助けきれなかったことは、死ぬまで悔やみ続けることだろう」とカヨは思う。

弟の死に対してそれほどの自責の念をカヨに抱かせるものは、何だろうか。それはおそらく伝統的な沖縄の「ドメスティック・イデオロギー」である。ここでいう「ドメスティック・イデオロギー」とは、家族の中で女性が男性の兄弟を守っていかねばならない、という沖縄独自の母系的思想をいう。カヨはこのイデオロギーを内面化したために、後年、弟の死を自らの罪として背負いこむことになる。これはいわば、諸刃のイデオロギーである。

「……ウシは、カヨの手を取ると勘吉の手を握らせた。昔から沖縄では姉や妹がおなり神(うないがみ)として兄弟を守るものだと教えた。

 お前も(いやーん)勘吉を守(まむ)てぃとぅらしよ。

   カヨは母に頼られていることが嬉しくてならなかった。

   我(わん)が守る(まむい)さ」

とはいえ、幼い弟の事故死という悲劇が引き起こされたのも、そもそも沖縄戦があったからである。

いま、老女カヨは辺野古への基地の移設を強引に推し進める日本政府のやり口を目のあたりにする。住民が個人の力では抗いようもない圧倒的な力によって押し潰され、犠牲を強いられるという点で、沖縄戦と辺野古への基地移設の動きがカヨの心の中で重なるのである。

赤子殺しのトラウマ

表題作「魂魄の道」は、「斥候」と同様、たとえ村言葉(しまくとぅば)であっても語れない「沖縄戦」の記憶を抱えた老人を主人公=語り手にした物語だ。「私」はヤンバル生まれの八十六歳。沖縄戦のとき「防衛隊」に召集され、米軍と戦ったことがある。

沖縄戦が終結して五十年後(一九九五年)に、糸満市の平和祈念公園内に戦没者の名前を刻んだ平和の礎(いしじ)ができた。「私」は六十八歳になっていた。長女のさとみ夫婦に強引に誘われて、妻と一緒に出かけていく。そのとき、初めて戦争体験の話をした。倒れた仲間を洞窟の中に見捨てて退却したのだ、と。「私」は話しながら声が震え、胸騒ぎがした。

とはいえ、黒い石板とそこに刻まれた名前の列には「何か空々しい印象」を抱かざるをえなかった。

なぜ「私」は「何か空々しい印象」を抱いたのだろうか。

「私」は沖縄戦の最中に艦砲弾の破片を右膝に受け、南風原(はえばる)にある病院壕に運び込まれた。一週間後に南部への撤退を命じられたときに、杖をつきながら歩いたが、激痛が走った。雨の中、ぬかるみや窪みに足をとられ転んだり、地面でのたうったりした。

そのとき、か細い女性の声がした。「殺して……」と。近くに砲弾の破片で腹が切り裂かれ内臓があふれでて、瀕死の状態の女性が倒れていた。女性の近くには一歳ぐらいの赤子が倒れていた。まだ息はあるようだった。何度か女性の嘆願する声がして、そのたびに「私」は逡巡するが、女性が赤ん坊をこの世に残して先に逝きたくない、子どもと自分を殺してほしい、と頼んでいるのだ、と「私」は解釈する。

死にかけた女性の切なる嘆願に耳を傾けて、赤子に剣を突き刺し殺した経験はトラウマとなって、予期せぬ時に突然「私」を襲ってくる。戦争を生き延びた者の中に、PTSD(心的外傷後ストレス障害)が残った例である。これこそが「私」がいままで、自分の心の内奥に隠してきた秘密だった。

しかしながら、「私」のような沖縄戦のトラウマは、それを生み出す「権力」システム(圧倒的な力で沖縄や住民を巻き込む)がなくならないかぎり、沖縄という「戦場」の中で生産され続けるだろう。

「何も(ぬーん)変わらんさや。胸の中でつぶやいた。雨に濡れた草むらに横たわっていた母子の死は何だったのか。幼児に手をかけた自分の苦しみは何だったのか。今日一日の行動は何だったのか。そのすべてを無意味と笑う声が聞こえる……この手にもう一度力が戻るなら、ゴボウ剣で別の胸を刺してやるのに。そう思った。フロントガラスの端に灰色の機体が消える。思うだけで何もできない自分が歯がゆかった」

普天間基地に配備されたオスプレーの「灰色の機体」が象徴する、自分一個の力では止めようのない動きは、目取真の想像力の中では、これまた戦うべきもうひとつの「沖縄戦」に他ならないのだ。

日本軍の犯した罪

「露」と「神うなぎ」は共通のテーマを扱っている。日本軍兵士がおこなった一般住民の殺人である。前者は、沖縄出身の兵士が外地で中国人住民に対して、他方は、ヤンバルで海軍の隊長が沖縄住民に対して。

「露」では、普段は無口な宮城さんが仕事仲間の「してぃ居りても(うてぃん)、したとは言えぬことも(いららんくとぅん)、戦やれー多いはずやー」[してしまったことでも、したとは言えないことも、戦争だから多いはずや](45)という挑発の言葉に乗り、行軍で水を飲めぬ苦しみの中、怒りに駆られて中国人を虐殺したことを村言葉(しまくとぅば)で告白する。

「……シナ人を見つけしだい殺(くる)さんねー気がすまん。男(ゐきが)や逃げ(びんぎ)てぃ、年寄(とぅしゆい)、女子(ゐなぐ)、童(わらび)しか居らんてぃん、見境は(や)無(ねー)いらん。片っ端から皆殺してー。女子は強姦して、陰部(ぼー)んかい棒を突(ち)っ込(く)んでぃ蹴(き)り殺(くる)ち、童は(わらびや)母親の目の前で(めーぬめーじ)切(き)り殺し(くるち)、足(ぴさ)を掴まえてぃ振り巡(ぷんみぐ)らち頭を石で叩き割った者(もの)も居ったさ……」

一方、「神うなぎ」では、文安という中年の男が主人公だが、沖縄戦のときにハワイへの出稼ぎ帰りで、英語を喋ることができた父が「スパイ」と疑われて日本軍によって惨殺されている。

結婚後、子供ができた文安は、学費を稼ぐために本土(ヤマトゥ)に出稼ぎに出るが、そこで、かつて村人のあいだで自分の父を殺したと噂されていた赤崎隊長に出くわす。赤崎は地元では皆から慕われ、信頼されているようであったが、文安に対しては高圧的で、最後まで自分の非を認めることも謝ることもなかった。それだけではなく、家族にも文安が言いがかりをつけていると嘘をつくのだった。

赤崎は文安に「まったく常識がない。だから駄目なんだ、お前たち沖縄人は」と言い放つ。赤崎の沖縄蔑視は、沖縄戦の頃からずっと温存していたものであった。かつて日本兵が村の命の泉を守ると神(ぬし)として住民たちから畏敬されていた「神うなぎ」を捕まえたことがあり、文安の父が赤崎に逃してほしいと必死に嘆願したとき、赤崎は「そういう非科学的なことを言っているから、お前たち沖縄人は駄目なんだ」と吐き捨てるように言ったことがあった。

その後、無念さを抱えてヤンバルに帰った文安が、雑草に覆われた西の森(いりぬむい)を切り開き、産泉(うぶがー)に棲む「神うなぎ」を発見する。井戸の中の「闘魚」を弟の生まれ変わりと思ったカヨと同様、文安はそれを父の生まれ変わりと思ったに違いない。

肉体は滅びても魂は残る。そうした沖縄的哲学を捨てずに、赤崎の沖縄蔑視の言葉に象徴される、もうひとつの「沖縄戦」に対して戦いを挑む。支配者の「発明・捏造」した「単一民族、単一言語」というイデオロギーに抗あらがうためにも。



参考文献

赤嶺政信「男系原理と女性の霊威」喜納育江編『沖縄ジェンダー学1――「伝統」へのアプローチ』(大月書店、2014年)、35-55頁。

NHKスペシャル取材班『僕は少年ゲリラ兵だった――陸軍中野学校が作った沖縄秘密部隊』(新潮社、2016年)

玉城福子『沖縄とセクシュアリティの社会学 ポストコロニアル・フェミニズムから問い直す沖縄戦・米軍基地・観光』(人文書院、2022年)

三上智恵『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社新書、2020年)

目取真俊『魂魄の道』(影書房、2023年)

「少年1000人はゲリラにされた 沖縄戦“護郷隊”」<戦場の住民たち・沖縄戦75年>『毎日新聞』2020年6月22日。


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