なんちゃらソーダにいいねがほしい。

テラス席午後の日差しに汗をかくなんちゃらソーダにいいねがほしい

短歌を考えてみた。我ながらすごく、今、っていう感じの短歌だと思うし、気分を結構表せていると思う。
わざわざ暑いテラス席に座るのも、汗をかいているのも、よくわかんない変なソーダを注文したのも、全部「いいね」のためである。おしゃれなテラス席を背景に、汗をかいて水滴がついたグラスに注がれた、おしゃれそうなドリンクの写真をSNSにアップして、みんなに「いいね」と言ってもらうためである。そういう短歌だ。

別にソーダが飲みたいわけじゃなくて、「おしゃれなソーダを飲む自分」をお金を出して買っている。いわゆる情報を買う、情報を消費するというやつだ。パンケーキが食べたいわけじゃない、「話題の」パンケーキが食べたい。映画が見たいわけじゃない、「話題の」映画が見たい。それがほしいのは、みんながほしがっているからだ。

僕もたまには情報を消費したいと思う。ちゃらちゃらした上っ面にお金を払いたい。それは本質ではない、なんていう忠告はありがたいが無意味だ。情報として食事をし、情報としてレジャーを楽しみ、あらゆるものを情報として消費したい。
そしてそれをSNSに報告し、たくさんの「いいね」をもらうのだ。僕自身も情報として消費されるのだ。「いいね」は多ければ多いほど、僕は情報としてたくさん消費されたことがわかるのだ。

情報を消費する無意味さに気づいてそれを批判する時代はとっくに過ぎ去った。今の人たちにとって、情報を消費することこそに意味があるのだ。スマホで世界と繋がっている現在、ひとりの殻の中で認められる価値観に満足すべきだなんていうお説教はまっぴらだ。情報に振り回される快感はこの上なくリアルだ。
僕らが消費してそれを取り込み、それをアカウントに託し、SNSに情報として流れ出していく。僕らは情報を消費する主体であり、情報として消費される客体だ。
僕らがどれだけ価値のある情報を消費し、価値のある情報そのものになったか、それはすべて「いいね」の数が教えてくれる。

情報になってしまえば、くたびれた肉体からもイケてないプロフィールからも自由になって好きなように自分をカスタマイズできる。整形なんて転職なんてしなくたって、アカウントを取得して写真を撮るだけだ。(とはいえ、たくさんの「いいね」を稼ぐゲームで成功しなくちゃいけないけど。)

情報は空しい、それはわかってる。でもスマホの画面を暗くしたら、そこに映るのは空しい現実だ。

テラス席 いいね求むる ソーダ水

俳句にしてみた、短歌と比べてやはりキレがある。

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