日記随想:徒然草とともに 2章 ⓹

 老人たちの、生への執着の醜さをこき下ろして留飲を下げたあと、兼好法師は、さらに次の段に筆を進め、ひとの心、とりわけ男ごころの愚かさを掘り下げてみせる。おそらく自身が体験したことなども取り混ぜて書いたのであろうが、ともあれ筆を転じて、古くからよく知られた説話を挙げ、それを想像力でさらにゆたかな情景描写で脚色してみせる。

 書き出しは”世の人の心惑わすこと、色欲には如(し)かず”、というので、第三段の続きのような話。出家遁世の身で、仏の教えをひたすら奉じる日常と思いきや、修業を積んだ仙人ですら失墜する人間の煩悩に、深い理解と同情を惜しまない。前段に比べ、こちらは、大人向き、万人向きといえようか。

 まず、ひとの感覚を、どうしようもなく惹きつけるものとして挙げられるのは、匂いの魅惑である。衣装に薫きこめているだけで、やがて消える仮のものとは知りながら、なんとも言えない薫香に、必ず胸がときめいてしまうもの、と述懐した後、筆を転じて、有名な久米の仙人の説話に話を移す。
 
 きびしい修行の結果、神通力を得て仙人となり、空を自在に飛ぶ力を得た久米の仙人、ある時吉野の空を自由に飛翔していたが、たまたま吉野川のほとりで洗濯している若い女の脛の白さを見てしまい、忽ち魅惑され、神通力を失って空から墜落してしまった、若い女のむき出しの手足は、いかにも白く清らかであったのだろう、とか、むっちり肥えて脂がのっていたのであろう、などと想像力を膨らまして描き出し、うら若い女の素肌の美しさには、仙人なりとも惑うのは当然のこと、と理解を示すのである。
  
 続く第九段も、こうした男女の愛着の道へと話を導く。まず女の髪の美しいのが目を引くこと、またすべていい女というものは、ものを言うにも、ものごしにも、御簾ごしにも優雅な様子がうかがえる、と王朝風美意識の名残りを漂わせた文のあと、どうかするとふとしたしぐさで男心を惑わし、女がぐっすり眠りもせず、身を粉にして苦労に耐え忍ぶのも、ひとえに男に気に入られたいと思うからだという。そして愛着の道というものは、根源的に深く遠いものと説く。

 仏道の世界で唱えられる六根清浄、色・声・香・味・触・法の六根、は心を汚し煩悩のもとになるとはいえ、遠ざけることはできるけれども、色、すなわち愛欲の惑いだけはやめがたい、そして、老いていても、若くとも知恵があろうが、愚かであろうが、これはかわりなし、といいきる。

 女の髪を撚り合わせて作った綱には巨大な象も繋ぎ止められ、女が履いた足駄で作った笛の音に秋の鹿も必ず寄ると伝えられているほどだから、愛欲こそ、自ら戒めて、恐れ慎しむべき惑いである、と、きっぱりいう。
 
 よほど苦しめられたことがあったのだろうか?などと思わされたりするくだりではある。


 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?