3-5.一転

その年は、春が来るのが遅かったような気がする。

5年という月日のせいなのか、卒業というのはこんなに物憂げに迫ってくるんだな、なんて思っていた3月のある日。
僕は来る卒業、そして京都への引越に向け、一人暮らしのアパートの中を整理していた。

僕には“思い出の品”というものが極端に少ない。
友人たちとの交流で家に遊びに行ったりするとまま見かける、昔の写真とか卒業アルバムとか。
そういった類のものが何一つ存在しない。

だからと言って寂しさなんかはほとんど感じていなかった、というよりは“寂しい”という感覚がどういうものなのか、あまり理解していなかった。

何故か昔から全く苦にならなかった整頓のお陰か、拍子抜けするほど進んでいく荷造りと減っていく部屋の中の色が、ここでの思い出を思い起こさせ。
一人、というのはもしかしたら悲しいことなのかもしれないと、少しだけ干渉に浸ることも出来た。
収納で塞がれていた窓を久しぶりに開けると、心地いいものの少し冷たい風が入ってきて。
窓の縁に腰掛けてタバコに火を点けながら、何気なく外を見ていた。

窓はいつも通る道からすると裏側、眼下には小さな公園。
こんなところに公園があったのか、と目を奪われたのはそこで遊ぶ親子。
女の子が、滑り台を下れずにいた。

大丈夫大丈夫、おいで

母親が娘にかける声が妙に浸みる。
こんな何気ない日常にも、はっきり分かるほど立派な大人がいる。
その事を強烈に印象付けられてしまう。

それと同時に浮かぶ感覚。
記憶をかなり遡ってはみたものの、僕は母とあんな風に遊んだことはない。
羨ましいというか、寂しいというか。
照れ臭い感覚と、女の子に対する頑張れという激励の思い。

少しだけ、理解した。
立派な大人というのは、誰かを応援しているんだな。照れくさいというのは僕の中にあるまだ大きな子供の心、頑張れというのは少し芽生えた大人の心。
羨ましいも寂しいも、所詮は受け取る側の感覚であって、与える側の心情ではないことがほんの少し。
結局、自立したつもりになっていた僕の浅はかな克己心は、偶然見かけた親子の“おかげで”脆くも崩れてしまう。

マエセンにノブオさん、カツさん。戦友達。
一人で生きてきた、切り拓いてきたと思っていた淡い期待は言ってみれば勘違い以外の何物でもなく。生かされてきたことを思い知らされた。

寂しいという感覚はほとんど感じたことなどない、のだが。

整理を終えた部屋は、何だかがらんとしていて。そこはかとない哀愁、つまりは寂しさのようなものが襲ってきて。
友人を含め誰も部屋にあげたことは無かったものの、思い返せば沢山の事をこの部屋で考え沢山の葛藤をし、ひとりの、ではあるが無数の思い出があり。
ノブオさんに用意して頂いたにも関わらず、自分の城だと感じられるほどの時間と密度であったことに気付く。

お世話になりました
ではなく
ありがとうございました

という言葉が自然と出たことに自分でも驚く。
そうか、これが“感謝”なんだ。

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