3-8.貫徹

新人さん?

端麗な容姿とは裏腹の低い声に面食らった僕は慌てつつ、小一時間前に与えてもらった名前を名乗る。

途端に彼女の表情が綻ぶ、と同時に笑い出した。与えてもらったものに文句などないが、確かに可笑しな名前ではある。
とは言うものの笑ってもらえた事による安堵によってか、無駄に入っていた肩の力が抜けたような気がして落ち着けた。

そっか、あなたはオーナーに連れてこられたのね

関西地方でもその特殊な方言に似つかわしくない標準語で語られた内容は、衝撃の強さで以て再度僕の頭の中を掻き回したが、更に彼女は続ける。
そこから僕は、1年分にも相当しそうな“そうなんですか?!”という言葉を10分足らずのうちに言わされることとなる。

要約すると、こうだ。
目の前の女性客は常連様であること。
あのカラオケ店のオーナーとこのホストクラブのオーナーが兄弟であること。
六郎という名前は、僕で2人目であること。
先代の“初代六郎さん”も、カラオケ店のオーナーが突然連れてきたこと。
初代六郎さんは、既に店にはおらず、古都のとある芸事の家元をされていること。
そしてこの常連様が、初代六郎さんを指名していたこと。

あなたも六郎という名前をもらったのだから、頑張らないとね

確かに驚いてはいた。だけどその時はもう既に彼女の話から、今自分の置かれた状況が偶然の産物ではないかもしれないということを、何となく勘づいていたんだ。
仕事というものは嫌いじゃない。自分の現時点での実力というか、位置というか。そういうものを測るのには最適だったから。

そんな僕が今やるべき仕事は、驚く事じゃなく、この席に到達する数歩の間に定めた拙い決意、誰かを応援することと目の前のお客様へ最大限のサービスをすること。
お金というものを頂く事、そしてその使い方に何となく違和感を感じていた僕を覆う薄皮のような浅い決意は、瞬間湧いた疑問によって呆気なく崩れ去ってしまい。

不意にその疑問が口をついてしまう。

どうしてこういうお店に来るんですか、僕が伺う事ではないかもしれませんが

彼女の顔から笑顔が消え、同時に並べた言葉はそれ以上の衝撃を僕に与えた。

大人になるとね、色々あるのよ。あなたにはわならないでしょうけど
お金を派手に使うのは、ストレスを発散するため
それとね、この世界で這い上がる男の子を見ていたいってのもあるわ

先の、笑顔を伴った彼女による解説が瞬間的に繋がり。
なるほど、僕は彼女の語る所謂大人の色々、の中に放り込まれたんだな、まさかとは思うがこれが大人になるということなのか。

そしてふつふつと覚える怒りの感情。

思えば、まともに怒りを表現した、いや出来たのも高校一年生のあの時だけだったかもしれない。あれから数年経ち、心も体も少しばかりは大人に近づいたと言えそうなものだったが。
好きにやれという言葉のせいか、その怒りの感情を抑える術をその時の僕は何も持っていなかったんだ。

あなたの言う色々に、僕は付き合う気はありません

そう言って席を立つ。
歩く時は足音を立てるな、という指導が無意味になるほどの怒りが僕の中を支配していたのだが。何にそんなに猛っているのか、くゆらせて見つめたタバコの煙の向こうに答えは書いていなかった。つまりは僕自身が感情にかまけて、文字通りよく分からない怒りをもって仕事を放棄したということ。

仕事とはこれまでの僕にとって、立派な大人たちに与えてもらってきたもので、何だか仕事そのものだとか、あまりない過去の良い思い出を侮辱された気がして。

そういう思いがあったからこそ、投げ出さず放り出さず我慢してやって来たんだ。そんな自分を誇ってもいたし、信じてもいた。

だが今しがた、取った行動は紛れもなく放棄。
僕はこの時、生まれて初めて仕事を投げ出したんだ。

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