El Hor / El Ha 『ヘーローとレアンダー』伝承の新しい受容―セイレーンとしてのヘーロー

                                                        

はじめに

 

 ヘーローとレアンダー[1]の悲恋の物語は、文学だけでなく絵画、音楽などにさまざまな芸術家にインスピレーションを与え、繰り返し取り上げられ翻案されてきた題材である。

近代以降のドイツ文学においても、フリードリヒ・シラー Friedrich Schiller のバラーデ 『ヘーローとレアンダー』 Hero und Leander (1801) 、戯曲ではフランツ・グリルパルツァー Franz Grillparzer の5幕の悲劇『海の波恋の波』  Des Meeres und der Liebe Welle ( 1831 ) が著名である。またシラーの作品よりも早い1788年に、フリードリヒ・ヘルダーリン Friedrich Hölderlin も『ヘーロー』 Hero という詩を創作している[2] 。さらに20世紀に入って、無名の女性作家El Hor / El Ha[3] が、短い散文作品『ヘーローとレアンダー』を書いている。この女性作家の作品は、先行の翻案と大きく異なっている。本論では、ウェルギリウス、ムーサイオス、中世の作品、上述の近代以降のドイツ文学の各作品を通観し、El Hor / El Ha の描くヘーロー像の独特な造形に注目して解説する。古代から中世へ、この素材の翻案史を概観し、次に近代ドイツ文学での翻案に触れ、最後にEl Hor / El Ha の作品の特徴に言及したい。

 

1.   ヘーローとレアンダー伝承翻案史

1.1 オウィディウス、ムーサイオス、中世

 この章ではヘーローとレアンダー伝承の翻案史を概観する。

周知のようにこの題材が完成した形で残され、後世の作家たちの創作の源となった最古のものは、オウィディウスOvidiusとムーサイオスMusaiosの作品である[4]。

オウィディウスの『名婦の書簡』 Heroides[5]には、レアンダーがヘーローにあてた書簡(第18書簡)、ヘーローがレアンダーにあてた書簡(第19書簡)とフィクションの往復書簡が含まれている。七夜、嵐によってレアンダーがヘーローのもとへ通うことができず、ふたりの恋人たちが、お互いの苦しい胸の内を相手に伝えあう一往復の往復書簡という形をとっている。

ムーサイオスの作品は、5世紀に書かれ叙事詩の形式で、二人の馴れ初めから死まで、この悲恋の顛末を語る。あらすじは次のとおりである。

アビュドスのアフロディーテ神殿に仕える巫女のヘーローと、対岸セストスに住む若者レアンダーが、アビュドスでの祭りの際に出合う。ヘーローは塔の上に住んでいるので、そこに明かりを灯して目印とする。その灯を目指して、夜ごとレアンダーは海を泳いでヘーローのもとへ通い、愛の契りを交わす。時が経ち、海が荒れる季節が到来し、レアンダーは嵐の中を泳いで行く。しかし目印としていた灯火が風で消されて、目標を見失って、彼は溺れ死んでしまう。翌朝、打ち寄せられた恋人の亡骸を見つけたヘーローは、悲しみのあまり自らも塔から身を投げる。

一方は叙事詩、他方は往復書簡と、作品の形式も異なっている。それだけでなく、ムーサイオスはこの物語のストーリー全体を描き、オウィディウスの書簡は、時間的にはこのストーリーの中の一部分のみを取り上げた形になっている。七夜、嵐により逢瀬を妨げられた恋人たちの心情を、オウィディウスは巧みに描き上げた。時間軸で言うと、この書簡を交わした後に、レアンダーは嵐を押して海に飛び込む悲劇のクライマックスへ至る。

もともとは、紀元後1世紀ごろにはよく知られた物語であったと考えられている。この物語に言及する最も古いものは紀元前29年のウェルギリウスの 『農耕詩』Georgicaである。その三巻の258行から263行にかけてヘーローとレアンダーの物語を連想させる物語が語られている。ただしふたりの主人公の名は「かの若者」、「乙女」のように匿名で書かれている[6]。それはこの悲恋の物語が、紀元後一世紀後半のローマにおいては既に広く知られていた為に、固有名詞なしでも読者には理解されたと言われている[7]。

オウィディウスとムーサイオスには、ともにヘレニズム時代の共通した種本があったと考えられている。もともと地域的な伝承であったものが、二人の創作によって、世界的な文学創作の源泉となった。

後世におけるこの伝承の翻案は、時代、国、言語の点で、実に多彩である。有名なものでは、ルネサンスの詩人クリストファー・マーロウ、そのマーロウの未完の作品を完成したチャップマンや、実際にこの海峡を泳いで、物語の信憑性を確かめた後に作品を書いたといわれるバイロン卿の名が挙げられる。このほか、オランダ語、フランス語、スペイン語などでも作品が書かれている。この伝承の翻案は、そのままオウィディウスやムーサイオスの作品を模倣するものもあれば、様々な色付けを施したものも作られていく。一例をあげると、レアンダーの目印となっていた明かりが消える原因は、基本的に嵐の風、つまり自然現象が原因だった。のちに人が灯火を消すという人為的な要因が導入される。例えばフェルバーFärberやゲルトナーGärtnerによると、中世のラテン語文学のフランス人の聖職者ボードリ・ド・ブルグイユ Baudri de Bourgueil [8](1046 -1130)[9]の物語がそれにあたる[10]。ボードリの物語では、偶然が重なった不運な状況が作り出されている。ある時、ヘーローは普段よりも早く灯火を灯し、レアンダーの方はいつもより泳ぎだすのが遅れてしまう。その結果、ヘーローにはレアンダーの到着がより一層遅く感じられる。レアンダーの到着があまりに遅いのを不審に思い、ヘーローは不安に駆られて待ち続ける。待ち疲れたヘーローは、レアンダーが「別の女への情熱にとらわれて、誠を傷つけてしまった」(982-983行)のだ、もう自分のところには来ないのだと思い込み、とうとう逢瀬の目印となっている松明を消して(990行)「もはや、もう近くまで泳いできている彼を待つことはなく」(991行)部屋に入ってしまう。

真っ暗な嵐の海を泳いで渡っていたレアンダーは、あと少しで到着するというところで灯りが突然消え、いつもとは違う成り行きに不安に襲われる。(996~997行)そしてとうとう嵐の海で溺れてしまう。翌朝、レアンダーの亡骸が流れ着き、ヘーローは昨夜の自分の思い込みが間違っていたことに気付き(1036行) レアンダーの遺体を目の当たりにして激しい後悔の念に苛まれ、彼の後を追って死ぬ。嵐の風によって目印の灯りが消え、レアンダーが溺死するという通常のストーリーに、思い込みとすれ違いの偶然から起きたこととは言え、ヘーロー自らの手で火を消すという新たな要素が、この伝承の改作史に付け加わる。

 このほか、人の手によって火が消されるケースとしては、悪意のある第三者によって、目印の灯火が消されるものもある。のちに述べる通り、この筋書きはグリルパルツァーでも採用されている。そのほかにフェルバーは16世紀のドイツの民謡『王の子供たち』 Die Königskinder[11] の名をあげている。 ここでは一人の女が壁から明かりを取り、それを消すというストーリーである。この様に、中世以降にはヘーロー自ら、思い違いであるにせよ自分で灯火を消す、ないしは悪意のある第三者が灯火を持ち去る、消すといったストーリーがみられる。このあと近代以降のドイツ文学に限定し、年代順にヘルダーリン、シラー、グリルパルツァー及びEl Hor / El Ha の作品を取り上げる[12]。 

 

1.2 近代以降のドイツ文学での翻案

1.2.1 へルダーリン『ヘーロー』 Hero (1788)

ロマン派以降、オウィディウスの『名婦の書簡』 はドイツの詩人にインスピレーションを与えることはほんどなかった[13] と言う指摘もある。しかしこの作品に関しては、ヘルダーリンがオウィディウスを勉強した成果として生まれた。シュトゥットガルト版の注釈にはオウィディウスの18、19書簡との関連個所のほか、他の書簡の影響も指摘されている[14]。

この詩ではこの悲恋の背景や恋愛物語については全く描かれていない。ごく短い時間内の出来事が、ヘーローの独白で描かれている。オウィディウス同様、嵐で七夜会えないなか、やはりオウィディウス同様、恋人の不実を疑い、愛人の腕の中で私をあざけっているのだろうかという疑いも口にする。 しかしヘーローが塔から海岸へと降りてみると、レアンダーが泳いでくるのに気づく。彼女は期待に胸を膨らませて浜辺で待つが、その間に波にのまれてレアンダーは溺れてしまう。岸に打ち寄せられた彼の遺体を確認する際に、「彼女は灯りを死者の上にかざす。」と、この作品において初めて灯りの存在が言及される。嵐の夜なので、塔から降りて海辺へ出てきたヘーローが手に灯りを持っている事は容易に想像できるが、その灯りはヘーローが住んでいた塔の窓辺に灯されて、レアンダーの道しるべとなっていた灯火そのものなのかどうかは不明である。

 嵐の中を泳いでくるレアンダーに気付いたヘーローは、「(うれしそうに)あの方に私を探させてやりましょう。 この岩陰で耳を澄ましていましょう。」と岩陰に隠れる。塔上の明かりが残されているとしても、ヘーローが岩陰に隠れたことで、海岸近くが真っ暗になり、レアンダーは危険な岩場に入ってしまったかもしれない。とはいえそれは彼女の悪意からでた行動ではない。最終行「私は後を追います」というヘーローの決意が語られているように、恋人の死を知ってその後を追って死ぬ、という従来のパターンが踏襲されている。

 

1.2.2 シラー『ヘーローとレアンダー』 Hero und Leander (1801)

この作品では、伝統的なストーリーに基本的に大きな変更は加えられていない。灯火を消したのはあくまで嵐の風であり人の手ではない。ヘーローは神々に祈り、生贄を捧げてようやく嵐は静まる。ブリンクマンの解説によれば、シラーはムーサイオスの素材や筋立てにほぼ忠実に従って創作しているが、神々に生贄を捧げレアンダーの安全を祈る部分は、シラーが付け加えた部分である[15]。しかし祈りの甲斐もなくレアンダーの死体が流れ着き、ヘーローはその後を追って死ぬ。ここでも従来のストーリーが踏襲され、ほぼ定型どおりに創作されている。

 

1.2.3 グリルパルツァー『海の波 恋の波』 Des Meeres und der Liebe Welle

グリルパルツァーが残した遺品の中に、ムーサイオスの『ヘーローとレアンダー』の翻訳が残っており、イェリネクによれば、これにはいろいろ書き込みがなされていることから、これをもとにこの作品を創作したと考えられている[16]。ムーサイオスと違う点は、舞台での上演のために、時間が三日間に短縮されるように工夫されていることである[17]。

巫女としてのヘーローには、世俗の恋愛が禁じられている。そのため彼女に恋をしたレアンダーに対して、ヘーローの伯父である司祭は激怒し、町は大騒ぎになる。司祭は二人の恋の邪魔をしようと、ヘーローにさまざまな用事を言いつけ、彼女が疲れて眠るように仕向け、その隙に灯火を消してしまう。「灯火を消す悪意を持った第三者」は、この作品ではヘーローの伯父である司祭である。 ただし劇中では、観客の目の前で司祭が灯火を消すシーンが演じられるわけではない。司祭は「神々の嵐がお前の炎を消してくださるように!」Der Götter Sturm verlösche deine Flamme! と言って、ヘーローの住まいである塔の中へ入ってゆく。その後の司祭の行動は、塔を見上げて話す門番のセリフ「ランプが動かされる。彼自身が!―不幸な娘よ!目覚めているのか?いや、お前に夢が警告してはくれないのか?」というセリフののち、ト書きで「ランプが消える」と続く。この言葉によって、司祭が灯火を消した犯人であることが示唆されている。

眠りから覚めたヘーローは、明かりが消えていることに気付くが、自分が眠り込んですぐに嵐で火が消え、レアンダーはまだ泳ぎだしてきていなかったのだ、荒波に呑まれる心配はなかったのだと都合よく解釈してしまう。彼女は劇の最後まで、火を消したのが司祭の企みであったと気づいてはいない。またこの作品はヘーローとレアンダーの翻案のなかでは珍しく、レアンダーの後を追って身投げをするという結末になっていない。前作『ザッフォー』Saffoで主人公が「身投げ」をするために、この作品では重複を避けたと言われている。

 このように、ドイツ文学のヘーローとレアンダー伝承を翻案した作品の中では、灯火を消すものが風ではなく人の手に変わっている作品も見られる一方で、女主人公ヘーローは従来通り、レアンダーの死に関し、何らかの主体的な役割を果たしてはいない。もちろんグリルパルツァーの悲劇の登場人物の様に、近代人の感性を持っているという点などを指摘していけば、相違点は多々あるであろう。しかしヘーロー像や彼女の役割そのものは、大きな変化なしに受け継がれていることに気付く。なによりも、レアンダーの死にヘーローは関与する、できる存在ではないのである。

 

1.       El Hor 『ヘーローとレアンダー』

 

 この作品は1914年に雑誌『ザトゥルン』 Saturn にEl Hor の筆名で発表された作品である[18]。作品は夜の情景描写で始まる。

 

窓のアーチは夜の切れ端をその枠の中に嵌め込み、海はチラチラと光る燐の筋でできているかの様に、黒みがかった翻る旗の中に織り込まれている。   

海風が生暖かく湿り気を帯びて湧き出し、塩からい砂浜を越え、壁や柱の周りへ、そして窓へと流れ込んでくる。

ヘーローは眠らずに待っている。                                    

レアンダーは遠くから、彼女の灯すランプに導かれて海を泳いでやってくる。

彼は昨日のように彼女の元へやってくるのだろう。

昨日彼は初めてやって来た。

ああ、初めて!

あれはもう過ぎてしまったこと。                                    

今日彼はまたやってくるだろう。彼は海の匂い、夜の霧の匂いがするのだろう。

昨日そうだったように。すべては昨日と同じだろう。

そうはならない!一つとして繰り返すことはないのだ!

(そうはさせない!一つとして繰り返させはしない!)[19]

そうして彼女はランプを消す。

海は絶え間なくシューと音を立て、咆哮する。                         

彼女は浜辺へ走って降りてゆく。外に出ると風が彼女を掴む、待ちきれない情夫のように。

彼女は歌を歌いながら、岩だらけの浜を行ったり来たり、朝まで歩き続ける。   

 

 この作品については、作家が無名で実名も不明、経歴がほとんど不明であることもあり、作品論も無いに等しい状況である。トーマス・ゲルトナー Thomas Gärtner が『誰が火を消すのか?』 Wer löscht das Feuer? というヘーローとレアンダー伝承の翻案を論じた論文が唯一といってよいもので、注においてではあるが、この作品について言及している[20]。作品に沿って丁寧に解釈したものではなく、言及したといった程度だが、作品解釈の一つの手がかりとしたい。

ゲルトナーは「ここではランプが愛する女性によって意図的に(mutwillig)消されるのだ」 と言っている。へーローが灯火を消した理由として、ゲルトナーは、レアンダーが前夜の愛を一夜限りの恋愛としたらしく、もう帰っては来ないのだと判断したために、自ら灯火を消したのだとしている。

ゲルトナーはボードリの作品に言及する際も、ヘーローが灯火を消す件についてもmutwilligという言葉を使っている。したがって、風で自然に火が消えたわけではなく、彼女の意志で火を消したという意味で使われている。彼の説明を見る限り、ゲルトナーの理解ではEl Horの作品を、ボードリの作品の延長線上にある作品と位置付けているように思われる。違いはゲルトナー自身も書いている通り、ウェルギリウスの作品にあるように、嵐によって逢瀬が妨げられるというモチーフが全くないこと、恋愛の夜は一夜だけで、ヘーローが一夜限りの恋愛の対象になったらしいと言う点である。

 ゲルトナーはオリジナル原文32ページの 行目から 行目を引用し、ヘーローはまだ希望を抱いていると分析している。ヘーローが目印の灯火を灯し寝ずに待っている事からみて、二人の間で昨夜の出来事が、一夜限りの恋愛であったと了解し合っていたとは考えられない。たしかにDas ist vorbei. と言っているこの一行は、複数の解釈が可能であろう。恋愛自体が終わってしまったのか、それとも初めての恋愛の時が過ぎてしまったと言っているだけなのか。前者であるとすれば、ヘーローはレアンダーが来ないのだと悟っているとも取れる。またEs soll nicht sein! Nichts soll wiederkehren! で彼女はレアンダーの到来をここで諦めたと読めなくもない。

これがボードリの作品と同じ状況、つまりヘーローは当初はレアンダーを迎えるべく目印の灯火を灯していた。にもかかわらずレアンダーがなかなか現れないーこういう状況でボードリのヘーローは、灯火を消す前に最初はいらいらと待ち続け、ようやく今日は来ないのだ、他の女のところにいるのだろうと諦めて灯火を消し、自室に引きあげてしまう。El Hor のヘーローにはそうした焦燥感や不安の表現はない。たしかにDas ist vorbei. で恋愛は終わったのだと意識し、再びゲルトナーの説明では期待の言葉を述べ、Es soll nicht sein! Nichts soll wiederkehren! でまた現実を認識しているとすれば、期待と断念、期待と断念を繰り返していると見ることもできなくはないかもしれないし、葛藤が表現されていると考えられなくもないかもしれない。

しかし恋人の到来をあきらめて火を消したのであれば、最終場面をどう解釈すべきかという問題が残る。昼間の海辺ではなく、真っ暗闇の嵐の中を、朝まで歌いながら歩き続けるのは、通常では考えにくいシチュエーションである。ボードリのヘーローは、火を消して自室に入ってしまう。嵐の夜でもあり、若い女性の身ではそのほうが遥かに自然な行動といえるだろう。

ヘーローが何の歌を歌っているのかが示されていないため、来ない恋人に腹を立てて、彼を呪う歌、怒りの歌を歌っている可能性も考えるべきであろう。しかし嵐の海岸で恨みや呪いの歌を歌うこと自体も、従来のヘーロー像にはあまり似つかわしくないと思われる。オウィディウスの往復書簡では、嵐で七夜会えないレアンダーに別の女の存在を妄想し、恨み言を述べてはいても、書簡の最後では嵐を押して泳いでくるような冒険は侵さないように、伝える理性的な面も見られる女性である。

このほか嵐の風を喩えたBuhle愛人 という表現も、「男性を近づけることを禁じられている処女であるべき巫女のヘーロー」という従来の人物設定には馴染まない表現である。

今まで見てきたさまざまなヘーローとレアンダー伝承を扱った作品では、そのほとんどすべてが、恋人の死を知って悲しみ取り乱し、その後を追って投身自殺をするという結末で終わる。しかしこの作品の最終場面では、この伝承の定石は使わずに、へーローが風にもみくちゃにされながら、一晩中海辺で歌を歌い歩き回る。この最終場面は、この伝承の翻案史において全く異質で、おそらく使われたことのない場面である。ゲルトナーの関心は、この論文のテーマ「誰が火を決すのか」に集約されているためか、最終場面には全く触れられていない。しかしこの作品の理解のためには、この場面の解釈をなしに済ますことはできない。

 

4.セイレーンとしてのヘーロー

拙稿ではゲルトナーとは別の解釈を試みる。ヘーローは昨日の恋愛を思い出しつつ、しかし「潮の匂い、夜の霧の匂いをさせて、海の彼方から泳いでやってくる恋人」[21]との初めての愛の夜は、すでに「終わったこと」 Das ist vorbei なのである。ここでのポイントは前の行で「すべては昨日そうであった通りだろう」の「全て」 alles と呼応する nichts である。すべてが昨夜と同じで、その一つとして同じではありえない、そんな愛の夜を繰り返しはさせないというヘーローの意志が、文末の感嘆符によってさらに強く印象付けられる。   

ヘーローは灯りを灯してレアンダーを待ちつつ、今夜も繰り返されるであろう恋愛の一部始終を、醒めた目で振り返っている。まだ来ぬ恋人を待ち望むというよりは、昨夜の恋愛の過程を振り返っているという印象すら与える。この冷静な書きぶりは、恋人が来るか来ないかと右往左往し、不貞のために来ないのか、それとも嵐で海に沈んだのかと悩むボードリのヘーロー像とは際立って異なっている。

当初、ヘーローは灯火を灯して寝ずにレアンダーを待っている。初めての一夜を思い出しながら。しかし彼女は初めての愛の夜はもう戻ってこないことを知っている。それはゲルトナーが言うように、レアンダーが帰ってこないという意味ではない。初めての未知であった愛の夜は、既知の愛の夜となってしまったのだ。彼女には今夜の愛も「昨日と同じ様に」(wie gestern) 過ぎていくことが予想できる。このくだりはゲルトナーの解釈の様に希望を持っているというよりは、昨日の出来事を思い出している、さらにそれを吟味しているかのようである。

ヘーローは「繰り返し」を終わらせることを決意する。そして火を消し、ボードリのヘーローの様に部屋に戻るのではなく、浜辺へ降りてきて風に体を掴まれつつ、一晩中歌を歌い歩き続ける。風を情夫に例え、次の新たな恋愛の可能性もこの表現で暗示され仄めかされている。ヘーローは二日目にしてもはや、前日と同じ愛を望まない。そのため、自分の手でレアンダーの道標となる灯火を消す。ゲルトナーの解説では一夜限りの恋愛を望んだのはレアンダーだったが、そうではない。むしろヘーローがそれを望んだのである。

 レアンダーを呑み込み、溺れさせる嵐と一体となって、岩だらけの浜辺で歌うヘーローの姿は、もはや今まで描き続けられ、翻案されてなお受け継がれてきた、純潔で麗しい乙女、恋人の後を追って死ぬ貞女ヘーローではない。名前こそないものの、この女はギリシア神話のセイレーンを連想させる。ホメロスの『オデュッセイア』Oddyseiaに出てくる、船人たちを歌で惑わし、海へ飛び込ませ溺れさせ、或いは船をおびき寄せ、島にやって来た彼らを餌食にし、犠牲者の骨が足元にうず高く積まれているという、あのセイレーンである。

この「浜辺で歌う女」をセイレーンと特定してよいのか、セイレーンの伝承とこの歌う女との間に矛盾はないのかを確認したい。作品中のヘーローは歌を歌っているが、オデッセウスをはじめ、船人を魅了した美しい声かどうかは不明である。またセイレーンの人数については、神話や伝承ではほとんどの場合、複数で登場する。ホメロスでは2人、それ以降の神話、伝承では3人、4人と人数が増えて、プラトンでは8人となっている。しかし例えばアポロドーロスの神話では3人とされるセイレーンだが、歌うのはひとりだけで、他のふたりは、楽器を奏でる。ほかにも単数で登場する例もなくはない。

次にセイレーンの居場所である。ホメロスの『オデュッセイア』では、セイレーンたちは緑豊かな野にいる。そのためEl Hor の書いている「岩だらけの浜辺」というのはこれには合致していないように見える。しかしこの点も、フェリックス・ギランの『ギリシア神話』などによれば、セイレーンはムーサイたちとの歌比べに負けた後、美しい羽をむしられてムーサイはその羽で頭飾りを作り、セイレーンたちは毛をむしられた姿を恥じて、ごつごつした岩場へ逃げて行ったとされている[22]。この点では作品と神話との矛盾はない。

たしかに伝承の中でのセイレーンにはさまざまな属性が与えられている。セイレーンは血や情欲に飢えた存在として、ハルピュイアやラミアなどの怪物とも同一視されることもある。また一方で、その評価も必ずしもネガティブなものばかりではない。したがってセイレーンに関しては一義的な評価は難しいのだが、あえてその中でこのヘーローの作品に合うものを探してみると、例えば作品の中に現れる「愛人」Buhle という表現は、情欲に飢えているとされるセイレーンの特徴にも当てはまる[23]。また鳥と若い女性が合体した姿Mischwesenを取るセイレーンは、ギリシア神話では、彼岸と此岸を結ぶ存在、死者の魂の守護者としても死者の世界とのつながりを持っていた。「岩だらけの岸辺に沿って歩きながら一晩中歌う女」の姿は、大筋としてセイレーンに当てはめてもよいであろうと考えられる。

へーローが何の歌を歌っているのかという疑問が依然残っているように見えるが、この問題は容易に解決可能である。この女をセイレーンとみなして良いとすれば、歌の内容は解釈の際に問題にする必要はない。なぜなら基本的にセイレーンには「歌を歌う」という属性が付随しているからである[24]。カフカの『セイレーンの沈黙』のように沈黙が話題になるケースや、アポロドーロスのように楽器を奏でるセイレーンもあるものの、基本的にセイレーンには「歌い、男性を誘惑する」という属性が付随している。また沈黙が話題になる場合も、もともとセイレーンが歌う存在であるという共通の了解があるからこそ、初めてその沈黙が問題になるので、セイレーンは基本的に歌う存在なのだ。El Horはセイレーンの姿を作品に取り入れるために、あえて「歌う」という言葉を付け加えたのであって、作品の中でヘーローが歌う歌の内容は、ここでは問題にする必要はない。また歌の内容だけでなく、「美しい声」かどうかも実は不問に付してよい項目である。セイレーンの声については美しい声で男を誘うのが通例だが、キケロの解釈したように『オデュッセウス』のセイレーンは、実は美しい声で男性を誘惑するだけではなく、真理を教えてやると言って誘惑したのである。キケロは真理へのあくなき探究が人に命を懸けさせるに値すると考えている[25]。ここではヘーローの声が美しいか否かは必ずしも問題になっているわけではない。

 

4.セイレーンとレアンダー

 

 El Horの物語は、ヘーローとレアンダーの物語なのか、それともヘーローとレアンダーの物語を借りたセイレーンの物語なのか。主人公ふたりの名前とストーリーの概要を見れば、確かにヘーローとレアンダーの物語のように見える。しかし物語の最後で、唐突にセイレーンに出会った読者は、当惑せざるを得ない。居心地の悪い思いをしながらヘーローとレアンダー物語の定型の中にこの作品を嵌め込もうすれば、最終場面だけはこの伝承には含まれない異物なので、この場面を看過せざるを得なくなる。

 この物語は最終場面を除けば、ゲルトナーが読んだように、ヘーローとレアンダーの物語と読めなくもない。が最終場面からこの作品をもう一度振り返ってみると、もはやよく知っている『ヘーローとレアンダー』の物語ではなく、美しきセイレーンに魅了され、海を泳いで溺死する哀れな若者の物語が浮かび上がってくる。

この作品のこうした構造について、アルトゥーア・ジルバーグライト Althur Silbergleit が書いた彼女の短編集『シーソー』(1913)への書評の言葉が参考になろう。彼は1913年10月ベルリンで発行された『デア・ターク』 Der Tag という新聞紙上で次のように書いている。

 

「彼女は短さと決然とした表現を好む。つまり数筆と幾つかの仄めかしだけでもう満足するのだ。したがっていくつかの形象を完成させ、本質の特徴を完全なものにするために、しばしば芸術愛好家の想像力が動員されるのだ」

 

この作品は書評で述べられている『シーソー』という作品集には含まれていないが、ほぼ同時期の作品である。この作品はまさに書評で述べられた特徴をよく表している作品のひとつと言えよう。数筆でヘーローとレアンダーの物語を描きながら、愛人に例えた嵐の風や、浜辺で歌う女と言った暗示的な形象や仄めかしを付け加えている。数筆のタッチだけをなぞればヘーローとレアンダーの物語だが、暗示する言葉を読み込めば、セイレーン的魔性の女が姿を現すという仕組みなのだ。その仄めかしも、「美しい声で男を魅了する」というセイレーンについて回るわかりやすい表現は避け、セイレーンを連想可能な最低限度の「浜辺で歌う女」という表現を作品にそっと滑り込ませることで、作品のタイトルと数筆のアウトラインで目くらまされる読者には読み落とされるかもしれないといった程度の仄めかしに抑えているのである。そのようにして一夜限りの恋愛にふける魔性の女を、ヘーローとレアンダーの純愛伝承を使って描いたのである。

 

4.1 補足 セイレーン伝承とヘーロー伝承の比較

 

しかしなぜわざわざこのように回りくどいやり方で、魔性の女、運命の女、ファムファタールを描こうとしたのか。

もともとヘーローとレアンダーの伝承と、セイレーンの伝承とは、まったく対照的と言って良いものである。そうした異質な伝承を作品の中に同居させることを可能にしたものは何だろうか。ここからはこの二つの伝承の類似性に注目したいと思う。

この二つの物語は、伝承としては全く接点がない。しかし全てではないものの、最終場面を除くと実は大変良く似た物語であることがわかる。つまりその大枠は、男性が女性に魅了されて理性を失い、海を泳いで渡っていく、または船を島へ漕ぎよせ難破する、命を奪われるという物語である。もちろんセイレーンは半身は若い美しい女性とは言え、人頭有翼の怪物、また時代が下ると人魚と同一視される海の魔物であるのだが。またヘーローは最終場面でレアンダーの死を知って投身自殺を遂げるが、セイレーンは人の誘惑に失敗すると海に飛び込み死ぬという予言がある。実際に一部は海に飛び込んで死ぬ、または岩に姿を変えるという伝承もある。このようにこの二つの伝承には投身自殺というモチーフまでもが共通している。こうした物語の構造的な類似性がEl Hor の作品の中でこの二つの伝承を出合わせるのを可能にしたのではないか。

それではヘーローの物語と、セイレーンの物語の相違点である乙女と魔物、この二つには本質的な違いがあるのだろうか。その違いは、相手の女性または魔物に対する男性側の認識の違いでしかない。誰がヘーローとセイレーンを区別しうるのか。客観的な第三者には、その区別は可能である。だからこそこのふたつは、別々の物語として受け継がれてきた。しかし少なくとも、その女性または女性のような怪物の美しさ、または魅惑的な声の虜になってしまった男性本人には、それはもはや不可能である。誘惑、誘いのターゲットになったが最後、それが身を亡ぼすものであると認識できず、その罠から逃げるすべはない。レアンダーは、現在のダーダネルス海峡の最も狭い部分とは言え、片道1240キロを毎夜往復したことになっている。そして最後は嵐の夜に海へ飛び込んだわけで、こうした蛮勇は果たして純愛といえるのだろうか。そのため、先人たちは必ずしもレアンダーの冒険を肯定的に評価しているわけではない。例えば、ブライアン・マードックBrian Murdochによれば、セバスチャン・ブラントは『阿呆船』Das Narrenschiffの中で、レアンダーは、ヘーローへの愛の誠を示したのではなく、愛の愚者Liebesnarr なのだと捉えており、実際多くの愚者たちの中にレアンダーの名前も挙げられている[26]。

セイレーンの魔力に関しては、あの百戦錬磨のオデッセウスですら、キルケ―から教えてもらった通りに、船の帆柱に縛り付けられていなければ、セイレーンの餌食になっていただろう。セイレーンの声に魅せられ、綱をほどいてくれとオデッセウスは叫ぶが、耳に蜜蝋で封をした船員たちが、あらかじめ命じられていた通り、オデッセウスをさらに強く縛りあげて事なきを得たのであった。

 恋愛に殉じ男性の後を追う純潔貞淑な乙女と、男性を誘惑し破滅させるセイレーンは、物語の世界ではそれぞれ別ものであり、何の接点も持つこともなくそれぞれの伝承は伝えられてきた。しかしこの二つは紙一重の差でつながりうる、よく似た物語である。

魅惑と誘惑、この二つの物語が同じ悲劇的結末を持ちうるために、El Hor の作品の中で、ヘーローとレアンダーの物語は、最終場面のセイレーンへと結びつくことができた。そして作家は大胆にも、ヘーローとレアンダーの物語という伝統的な純愛と悲恋の物語を使って、セイレーンのように、男性を一夜で捨ててしまう魔性の女の物語を作り上げたのである[27]。

 

5.女性の視点による新しい改作

男性作家たちが伝え続けてきた伝統的な伝承を破壊し、新しく読み替え、貞女ヘーローとは正反対の悪女として描くことで、男を虜にして命がけの冒険へ踏み出させる圧倒的な女性の力を表そうとしたのではないだろうか。したがってEl Hor で書かれた作品群同様、筆名を変えて再び別の雑誌や新聞に掲載されることはなかった。 

外見はあくまでもヘーローとレアンダーの物語だが、目を凝らしてみるとセイレーンの物語が浮かび上がる。El Hor が仕掛けた新しいヘーローとレアンダーの物語の正体は、実はセイレーンのようなファムファタールの物語であったのだ。そしてこのファムファタールこそ、El Hor / El Ha が生きた時代、19世紀世紀末オーストリアを代表するモチーフでもあった。

伝統的なモチーフであるヘーローとレアンダー伝承を使いつつ、まさに時代にぴったりとあてはまるファムファタール像を作り上げることができたのだ



[1] 本文中で言及する際はドイツ語読みで「ヘーロー」、「レアンダー」と統一し記載する。ただし作品名については参照した書名通りに記載する。

[2] このほかヘルティ Hölty の他、ゲーテ Goethe もこの題材を取り上げようとしていた。Vgl.Max Hermann Jellinek: Die Sage von Hero und Leander. Berlin, 1890. S.49f.

[3] この作家は本名が知られておらず、El Hor と El Ha という二つの筆名を使い、短い散文作品を雑誌や新聞などに発表している。実名が不明であるため、通常、二つの筆名をつなげてEl Hor / El Ha と称されているので、本稿もこれに倣って同様に表記する。この作家についての情報はドイツ国立図書館Deutsche Nationalbibliothek のウェブサイトでも確認できる。

Vgl.https://portal.dnb.de/opac.htm?method=simpleSearch&cqlMode=true&reset=true&referrerPosition=9&referrerResultId=%22El%22+and+%22Hor%22%26any&query=idn%3D126254265

[4] Katharina Volk: Hero und Leander in Ovids Doppelbriefen. In: Gymnasium 103, 1996, S.97.

[5] Thomas Gärtner: Wer löscht das Licht ? Zur Rezeption der Hero - und - Leander -Sage in Mittelalter, Renaissance und Neuzeit. In: Orbis Literarum 64:4, 2009, S.263.

 

[6] 河津千代(訳):ウェルギリウス:『牧歌・農耕詩』(未来社)1981年、p.298参照。ちなみにこうした伝承は日本にもあり、小泉八雲の『焼津にて』という小文の中に見つけることができる。この物語では、ヘーローとレアンダーの伝承とは逆に、女性のほうが恋人の元へ泳いでゆき、待つ男性側が火を焚いて目印としたが、火が消えて女性が溺れ死んだという話である。このなかで八雲はヘーローとレアンダーの物語に言及している。

[7] 中務哲郎(訳)『ギリシア恋愛小曲集』岩波文庫、2004年、p.208参照。

[8] 元々フランス人であることもあり、フランス語名のほか、ラテン語名の表記も複数(Baudri de Bourgelli、Baldericus Burgulianusなど) ある。資料とした Hans Färber: Hero und Leander. Musaios und die weiteren antiken Zeugnisse. Gesammelt und übersetzt von H. Färber. München 1961.のテキストに従って拙稿の本文中ではフランス名にしている。ただしFärberの注ではBalderich とドイツ語名である。

[9] Färber: S.77-83 以下の表記も同様である。

[10] ボードリはフランス人だが、聖職者なのでラテン語名が複数ある。ゲルトナーはバルドリクス・ブルグリエンシスBaldricus Burguliensisの名を記している。バルデリヒBalderichというドイツ語名も残っている。

[11] Vgl. Färber S.88. Die Königskinderでは一人の女が壁に掛けた蝋燭を取り火を消す。Färber S.112

[12] このほかヘルティのロマンツェ『レアンダーとヘーロー』でも、火を消すのは嵐の風であり、レアンダーの死体を見つけて投身自殺すると、従来通りの筋立てとなっている。Vgl. Hölty, Friedrich Christoph:

 

 

[14] Friedrich Holderlin: Sammtliche Weke. Stuttgart 1946.S.366

[15] Brinkmann,

[16] Jellinek: a.a.O.,S.68.

[17] (これはすでにマーロウの後継者であるチャップマンが、展開を三日に圧縮する先例を作っている。[17])省略

[18] Saturn. 1914.Heft1.S.31f.

[19] この訳は後述するように、解釈によって変わりうるので、二通の訳をつけてている。

[20] Thomas Gärtner: Wer löscht das Licht ? Zur Rezeption der Hero - und - Leander -Sage in Mittelalter, Renaissance und Neuzeit. In: Orbis Literarum 64:4, 2009, S.263.

[21] 「潮の匂いをさせて」のくだりはムーサイオスに見られる。Jellinekによれば1799年にムーサイオスのドイツ語訳が出版されている。「夜の霧の匂いをさせて」という表現はムーサイオスにはない。

[22] フェリックス・ギラン

[23] Der kleine Pauly

[24] カフカの『セイレーンの沈黙』のように沈黙が話題になるケースや、アポロドーロスのように楽器を奏でるセイレーンもあるものの、基本的にセイレーンには「歌い、男性を誘惑する」という属性が付いて回っている。また沈黙が話題になる場合も、もともとセイレーンが歌う存在であるという共通の了解があるからこそ、初めてその沈黙が問題になるので、セイレーンは基本的に歌う存在である。

[25] Sirene

[26] セバスチャン・ブラント作『阿呆船』

[27] 従来から使い尽くされた伝承の換骨奪胎を試みた作品は、『ヘーローとレアンダー』だけではない。同じくEl Hor の筆名で作品集『シーソー』に発表され、後にEl Ha 名で改作して発表された『青髭の騎士』 Ritter Blaubart という作品もそのひとつである。詳しくは別の機会に譲りたいが、やはり同様に使い回された素材を使って、従来とは全く違う物語に作り替えていることを指摘しておきたい。

最後までお読みいただきありがとうございます。
以前に出身大学の研究会で発表した原稿をまとめたものです。ちょうど亡父のお通夜の日が発表日と重なってしまい、強行突破した思い出があります。この口頭発表は論文にして発表する機会がなかったので、ここで公開することにしました。
論文としては未完成なものですが (様式も含めてまだ手直し途中で公開後に手を入れている状態です)、このまま埋もれさせるのも忍びなく、公開することにしました。
何か触発されるものがあれば幸いです。
原稿には著作権がありますので、万が一ご利用の際はご連絡ください。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?