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亡き父の思い出~これはキャッチボール?の巻~

母が他界して十数年して、父も母のもとへ旅立った。
最後の数年は思うように体の自由がきかず、ヘルパーさんにお世話になっていた。
同居も考えたが、2世帯が暮らすには不便すぎる実家。その当時アパートで暮らしていた私たち夫婦が二世帯住宅への改築を提案したが、『おれの目の黒いうちはこの家は壊させん!』と頑なに言うので、止む無く父は一人暮らしをすることに。父は止む無くとは思っていなかったかもしれないが。

父は団塊世代と言われる世代で、私が子供の頃は仕事一筋。
私が起きる時間には既に出勤して家にいなく、私が寝てから帰宅。
ほとんど顔を会わすことがなかった。それでも父親の存在を感じられていたのは、たぶん母親のおかげなんだろうと思う。

そんな父親との子供の頃の思い出は少ないが、何度かキャッチボールをしたことが記憶に残っている。
男ばかりの3兄弟の私は、お父さんとキャッチボールをしたい!というほどの気持ちはなかったと思うが、数少ない父親の休日の中でキャッチボールをするという時間は貴重だった。
父親からキャッチボールをするか!と言われれば、断ることはしなかった。

父は何事においても手加減というものを知らない。常に全力投球の人だった。それがその場に相応しい行動なのかどうかは別にして、その精神は私にも受け継がれているような気がする。ただ、空気を読むことが私には付加されているが。

そんな父とキャッチボールをする小学生。野球経験がないにしても、大人の全力投球である。同じく野球経験のない小学生の私、怖いし痛いし。
父がキャッチャー、私がピッチャーとしてのキャッチボールでも、返球が全力投球。やはり痛い。
キャッチャーミットをはめて私がキャッチャーをすると、怖い。しかもコントロール良くないし。

お父さん、痛いよ。もうちょっと軽く投げてよ。

私が苦痛を告げると

そんなんで痛いのか!弱虫!

力をセーブするどころか、鼻の穴をおっぴろげて『どうだ!強いだろ!』と言わんばかりに更に力をこめる。

親子のほのぼのとしたキャッチボールとはかけ離れていた。
当然、楽しいという感情より辛いという感情の方が勝っていた。


そんな幼少期の思い出があったからこそ、1号ちゃんや2号くんとは楽しんでキャッチボールが出来たのかな?反面教師的な。

大人になって父を亡くしてからだからこそ思うが、あれはあれで良き思い出だったな。
仕事一筋の父が数少ない家族との時間を割いてくれた。(ある意味、父のエゴだったのかもしれないが)
それだけでも子どもからすると思い出になる。


最後に一言だけ


本当のことを言うと、私は父親のことを大嫌いだった。
大人になって仕事に就いて、父親の仕事に対する情熱を知るまでは。

父の生き方の中で尊敬できる部分だけ切り取って好きになった。


この記事は父の日に書き留めたもの。
トップの画像は、1号ちゃんから送られてきた父の日のプレゼント。
何事もなく1日が終わるんだなと思っていたときに宅急便のおじさんがやってきた。うれションしそうなくらい嬉しかった。
『いつもありがとう。今度帰ったら一緒に走ろうね』
って、泣かせてくれるじゃねーか!



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