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小泉八雲の生涯ー2

アイルランド時代

ハーンが生まれた1850年代はギリシャのエプタニサ諸島は英国領で、母親のローザ・カシマティはキシラ島に住むギリシャ人、父親のチャールズ・ブッシュ・ハーンはアイルランド人軍医であった。

両親はレフカダ島で結婚するが父親は再び転任し、幼いハーンは人生最初の2~3年間を母親と二人きりで過ごした。

兄弟は男3人でしたが長男は早死にした。長男の死に傷ついたローザの愛情は八雲に集中しました。

後に八雲は、幼い彼のベッドにかがんで指で十字を切らせる時の母親の大きな黒い瞳や、彼を諭すために呼ぶ母親の声等についてアメリカに移住した三人目の弟に書簡で色々と打ち明けている。

母子2人は夫の故郷アイルランドへ向かうことになった。言葉の分かる召使を一人連れての旅だった。

紺碧の海や暖かい気候のギリシャでの牧歌的な時代は、アイルランドに移住した時に終止符を打った。

何事もそうであるが物事には表裏があり良いところもあれば悪いとところもある。

アイルランドでは、八雲の成長といった点ではプラスともマイナスとも、どちらとも取れる方向へ八雲に影響を与えた。

例えば、気候ではアイルランドのどんより曇った風景、イングランド系統とは違うケルト系の祖を持つアイルランド人の神秘的な森や佇む古城から受ける印象によりハーンの想像力は豊かになり、怪談や怪奇物語への傾倒を育んだ。

幼くして離れたためギリシャ文明にはうとかったが父親の実家の豊富な蔵書により古代ギリシャ文化に触れることもできた。

しかし慣れない土地での気苦労と精神的な圧迫感から母親は徐々に精神を侵され始めそれが原因で両親は離婚し、母親は3人目の妊娠の最中一人故郷に戻ったのである。

これが母親とは永遠の離別となった。その後父親は早々に再婚したが再任地エジプトで他界してしまつた。
愛情薄いハーンの父親と会ったのは7歳の時が最後だった。

ギリシャ時代、八雲に愛情を注いでくれた母親のかすかな残り香だけがが生涯八雲の支えとなったのだ。

みなしご同然となった八雲は父方の裕福な大叔母に引き取られその援助により王子様のように素晴らしい学生生活を送りフランスに留学もしたが、他方、厳格でカソリックの原理主義的考えを生活様式に適用する大叔母に嫌悪も感じ、反抗的で攻撃的な人格を形成していった。

半面、アイルランド南部、ケルト海に面したトラモアというウォーターフォード県の小さな保養地で幼年時代はこの海で好んで水泳をした。この海の風景こそ八雲の生涯の原風景であったことは間違えない。


幼年八雲はトラモアの海で泳ぎを覚え、乳母キャサリン・コステロから妖精譚や怪談を聞く至福の時をこの地で過ごした。その頃、キャサリンが語った「三つのお願い」(”Three Wishes”)と「聞き耳」(”Animal Languages”)という二つの民話は今も小泉八雲家の子孫の家では語り継がれているそうです。


 後年、51歳になった八雲は幼年時代を振り返り、アイルランドの妖精譚を再話した高名な詩人ウィリアム・バトラー・.イェーツに宛て、「私にはコナハト(アイルランド西部地方)出身の乳母がいて妖精譚や怪談を語ってくれた。

だから私はアイルランドの事物を愛すべきだし、また実際愛している」と、アイルランド伝統文化への愛情を告白しています。

この書簡からトラモアという小さなアイルランドの保養地が八雲のアイルランドの歴史に底流するケルト的精神性を理解する上で最も大切な場所の一つだったことがうかがえます。


八雲は、松江で日本庭園のある家に住み、「日本の庭で」というエッセーを書いています。

その中で「樹木には―少なくとも、日本の樹木には魂があるという考えは、梅や桜の木に花が咲いているのを見たことのある人なら、突拍子もない幻想だとは思わないであろう。
それは、出雲をはじめとしてどの地域でも、あまねく信じられていることである」と、日本人のアニミズムが日本人の自然観の基底にあることを伝え、自らもそれに共感しています。

アイルランドの中部や西部では、妖精の木や願い事の木といわれるご神木がいくつもあるそうです。アイルランドでも日本と同じく、キリスト教が渡来するまでの伝統的な信仰、ドルイド信仰から受け継がれた森羅万象に精霊が宿るという信仰が底流しているのです。

つまり自然への畏怖の念が日本やアイルランド両国に共通する自然観としてあるのです。

学生時代の八雲に二つの大事件が起こります。一つは事故により片目を失明したことであり、あと一つは大叔母の破産でしたした。

この二つはハーンにとって人生の大転機を呼び起こしたのです。白く濁った片目の影響で顔全体はバランスを崩した状態となり生涯真正面からの写真を撮ることはなかった。


彼の片目失明は生涯大変な劣等感となり後年、焼津で書いた随筆『音吉のだるま』では片目だるまに対し何とも言えないような哀歓を描きだしている。

八雲は学業を中断せざるを得ず、人生のどん底に転落した。アイルランドを出国し実家の乳母だった女性を頼ってロンドンに渡り、約3年間滞在したが極貧の生活を送った。

当時のロンドンは産業革命を迎え工業が盛んとなって繁栄していたが底辺労働者の権利は保護されず重労働に比べ大勢の労働者は大変貧しい生活を送っていたのだ。その一員であった八雲は近代化というものがなんであるのか懐疑的となった。それが近代化というものを避けるように世界の辺境をさまよう八雲19歳の漂泊の原点となったのだ。

彼は、片道切符を手に「新世界」アメリカ行きの船に乗り込むのだった。

アイルランドの夢物語は終わり当時大変貧しかった多くのアイルランド同胞(映画タイタニックによく描かれていた)ともに素寒貧の移民となっていたのだ。

3アメリカ時代へ


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