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大山捨松-その二

捨松の名であるが、その名を初めて知った人は多分どんな人か訝るだろう。男か?しかし女と知れば芸者上がりかと想像もする。当時とは言え手元に置きたい年齢(11歳)の娘を遠くに手放す母親の心情が、改名の由来と知れば、その母にして明治人の気骨を知るのだ。

捨松の母えんは、早くに夫を亡くしたが(捨松の生後1か月後に死んだ)会津籠城戦では女子隊を束ね、戦後は転封先都南藩での餓死者を出すほどの苦労の末、賊軍であった長男を新政府の要職に、次男健次郎をアメリカに留学させた後には、九州帝大、東京帝大の総長まで奉職させた。母親えんの家庭教育はさぞ見事であったのだろう。

さきから捨松と改名させた娘を明治の初期、誰もが行きたがらない留学をさせた母親えん。鬼のような親と噂した向きもあったと聞く。

捨松は宣教師宅にスティしながら11年の長い間当地の大学で勉強した。アメリカ人も驚くほど優秀な成績で、立派な論文も残し卒業している。
日本女性初の学位を得て帰国、留学仲間の津田梅子を助け津田塾大を創立させた功労者であり、アメリカで習得した看護学を生かし日本赤十字の母ともいわれる彼女の経歴を知れば誰もが驚くだろう。

然しアメリカで思春期を送り大学まで卒業した彼女は日本語をほとんど忘れていたので、帰国後彼女の才能を生かす職場はなかった。
彼女の才能を生かすチャンスが訪れたのは皮肉にも仇敵だった会津若松城の砲撃を指揮した大山巌を知り合ったことからであった。

明治16(1883)年

 大山巌は先妻を亡くしており、政府高官としての職を全うするには、3人の幼い娘を託せる後妻が必要だった。
 先妻の父/吉井友実も、幼い孫のためにと、後妻を探していた。
 吉井の目に適ったのが、山川捨松だった。

 当時の国内外交は、外交官同士の公式会談ではなく、夫人同伴の夜会や舞踏会が大きな部分を占めていたのだ。

 米国の名門大学を総代で卒業し、英会話だけでなくフランス語やドイツ語が得意で、かつ凛として美しい捨松は大山巌には理想的な女性に映った。
 留学生同士で親しかった永井繁子と瓜生外吉の結婚披露宴で2人は運命的に出会う。

 欧米式に洗練された捨松の美しさに、大山は一目惚れをしてしまう。

 吉井は、すぐさま山川家に縁談の意向を願い出た。
 会津藩の家老だった山川家が、戊辰の役の仇敵である薩摩藩士を許すはずもない。そして薩摩閥の大山の親戚もこの結婚には大反対だった。

砲兵隊長だった巌は、鶴ヶ城を攻撃して会津人の多くを死なせている。
 捨松の長兄であり家長であった兄、浩の妻は、その砲弾で爆死しているのだ。ですから浩は即刻、申し入れを拒絶する。

この求婚をまったく受け付けようともしない山川家に対して、巌は諦めなかった。巌は従兄弟の西郷従道に説得を依頼した。
従道は連日のように山川家に通った。
 従道は維新の英雄西郷隆盛の弟である。 巌の懇願を受けて従道も諦めなかった。

浩は言う。「我が山川家は、逆賊と汚名を着せられた元・会津藩士である」と。
  従道も負けてはいない。「大山巌も、今や同じ逆賊 (西南戦争のこと) となった西郷隆盛の一族です」
 徹夜に及ぶ日もあったという。
 
やがて、余りの熱意に “絶対反対” から、“捨松本人が承諾すれば”と 山川家当主が軟化した。

さっそく西郷は捨松に会うと、淡々とした返事が返ってきた。
「人柄を知らないうちに、返事などできません」
 結婚は親同士が決める時代、ましてや女の方からの結婚前の交際を要求することなど、西郷は驚いた。
 落胆した西郷は巌に伝えると、巌は大喜びで応じるといった。
 そしてデートが始まった。

さすが欧米の男女交際を知り尽くした捨松の提案に陸軍卿でありながらこれまた欧米に留学経験のある巌が応じ、いそいそと出向く様子に世間はとかくの噂をしたが、本人は平気であった。
 巌と捨松はデートを重ねた。
 日本語もままならぬ捨松、薩摩弁の巌、どちらも日本語では打ち解けあうことはできなかったが、英語やフランス語が両者を結び付けた。

やがて、巌の器量の大きさを知り 捨松は、年の差結婚を受け入れた。
 交際を初めて、わずか3ヵ月であった。
 捨松が政府の要人と結婚することは帰国後の教師として教壇に立つことの夢を諦めることでもあった。

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