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実在と現象

 見えるものは、見えないものの現れであろう。
実在が現象を 顕現するのであれば、二つの関係はどのように考えてみたらよいのだろうか。
東洋、殊に仏教ではどのようにこの問題を展開してきたのだろう。
私は何回もいうように哲学徒でもないし僧侶でもなく、ましてや仏教学者でもない、一般の知的探求者の立場でこのような論をいつも考究してきた。
ですからいつも難しい熟語も避け、できるだけその意味も添付してきた。

この問題の出所は、主に大乗紀信論によるのであろうが、京大で宗教学を論じた久松真一先生の論文集に接したときに、真如論の難しさに理解に苦労した。先生が主催したFAS協会にも参加したが、真意を理解する人は少数であろう。
先生の師である西田幾多郎の論文の内容も難解であるが、久松先生のそれは、哲学的展開から禅的な行と学問的知の融合的世界の展開なので、最近の軽きに流れる世相からか協会の活動そのものも停滞しているように見える。しかし、ある面、学行の一致を説く思想は今後も輝きを失うことがないだろう。

少し前書きが長くなりました。
仏教の小乗や大乗では、それぞれ現象の実在(本体)を業、阿頼耶識、真如と見なしてきた。
現象と実在というのは西洋哲学の術語であるが、仏教では万法と真如および事と理であらわしてきた。
「哲学は、現象から出発 し本質を研究すること」にあると定義すれば、
まさに仏教がいう万法と真如の関係の認識であろう。

仏教に馴染んだ人であれば、この真如という言葉は知っているだろう。
真は真実、如は常にそう である(如常)という意味である。
本質、本体の状態を指すものである 真如という概念、この種の世界に幾度か登場するのは、それが持つ二重性のためである。
大乗起信論において、真如は,随縁(多くのさまざまな縁にしたがって異なった相を生ずること)と不変との両面を持つとされる。

実在とは、 現象を発生させることができるという概念である。
また違う表現で事と理がある。
事とは現象であり、有限の多くのさまざまな縁にしたがって異なった相を生じたり、または、生じたものである。
縁にしたがって行為することでもあり、相対差別の世界である。

理とは本体本質実在を表し、無限絶対なありようである。ですから平等と同義である。

世界はただ現象と本体(実在)の二つの領域にすぎないとする近代の仏教界、思想界では、現象と実在の関係をプラトン式の二元論 ではなく、両者の一致、いわゆる現象即実在論であるとする。

生きるために与えられている環境や客観的な条件をそのまま肯定してしまうことは、日本人の思惟方法のうち基本的な部分である。つまり、現実にある世界(現象世界)をそのまま絶対的なものとして、その現実を離れた境地に絶対的なものを認めようとする立場を拒否する傾向にあるのだ。これを明治以降の哲学者は「現象即実在論」と呼んだ。

比叡山の天台学では「諸法は実相なり」という解釈を成立させ、現象即実在論の立場を取るに至ったという経緯がある。
これを道元は「実相は諸法なり」と逆転させ、この表現において、「もはや隠されているものは何も存在しない」となる。
ここにも、現象をそのまま肯定し受け止める日本人の姿勢が伺える。
災害の多い日本においてもなお日本人が、本質たる自然を愛好し自然の作り出す繊細微妙なものから生きとし生きるものへのいたわりの精神はこのような考え方が根底にあるからである。

日本古来の自然観、宗教観を代表するかのような「山川草木悉皆成仏」という言葉がある。
だが渡来仏教史上そのような言葉は存在しなかったという。
この言葉の書かれた「草木成仏論」を世に出したのは、平安時代の仏教思想家・安然である。

成仏は仏、覚者になること。また心の働きをもつ「有情」に対し、心の働きのない植物などを「無情」という。そこから「山川草木悉皆成仏」とは、無情であっても仏になれる、との意味になる。
日本人は、自然と調和し、共棲してきた。自然との共存こそが日本人の生き方であるといわれるが現在の日本及び日本人は果たしてどうであろうか。

安然が草木成仏論で説いた真如論は、「かたちのある何か」ではなく、有情・無情が生成し、帰滅していくところであり、それに思いを託し

京都真如堂と桜

接近していくことこそが信仰であるという。
その意味で、人間の思い上がりや不勉強が自然(無情)の怒りの元となり、天災をもたらす、という考え方なりが信仰とする論は現代人の傾聴すべきことも多い。


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