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北条政子 2

私のようなアマチュア歴史家でも江戸幕府の創設者である徳川家康は、『吾妻鏡』の愛読者であったことや、
家康が、鎌倉幕府が何故3代で源氏直系政権を終わらざるを得なかったのかを深く研究していたことを理解する。

改めて考えてみると、家康は『吾妻鏡』を反面教師として、江戸幕府の体制を整備したのは明らかである。
源氏の本家が断絶した歴史を鑑みて、家康がいちばん悩んだ点は、いかに徳川家の支配を存続させるかという点だった。

家康と政子の考えは、その動機が違うことを別にすれば結果は同じ目的であったのだろう。
政子にとって夫頼朝は非情であった。いかに源氏の棟梁であったとしても生まれついての貴族性は覆うべきもなく、土豪としての苦労をして勢力保持を計ってきた実家北条氏のような関東武士の気合はない。

次々と起こす女性問題そして自身が平家の池の禅尼の命乞いに救われたのに平家追悼に功績のあった弟義経に冠位も領地も与えぬまま非情な死に追いやるその諸行。

頼朝は、猜疑(さいぎ)心が強く陰険かつ冷酷であり鎌倉幕府の創始者というより関東武士団に「神輿(みこし)」として担がれただけであり、実際には戦さに弱い一面があった。
ですから政子は命がけで夫を支えたのに何時かは、自分や実家北条氏に災難をもたらしかねないと頼朝の排除を生前から思っていたのかもしれない。

何故ならば吾妻鑑には余りにも突然な頼朝の死の真相が欠落しておりそのような改竄を行うことができるのは政子を囲む一団しかいないからである。

長男頼家の将軍に適さざる異常な性格、妻の実家比企氏の台頭と反乱。平氏の圧迫から解放された北条氏を中心とした関東武士団の新体制をより強化するためには、政子は子殺しもあえて辞さなかったのではなかろうか。

頼家は修善寺で入浴中北条の手の者にかかり暗殺された。
頼家の若妻若狭局と長男でまだ幼子の一幡、そして比企一族は館に火を放たれ全員虐殺された。
若妻の無念は白蛇となって池を渡り何処かに消えたという。
今も鎌倉に怨念を遺した白蛇の姿を人は見かけるという。

北条政子が追討令を出した比企氏の乱平定後、朝廷から父頼朝さへも授与されなかった右大臣の冠位を手にした実朝。
これを機に今まさに後鳥羽上皇の実朝懐柔と京都朝廷の鎌倉幕府への干渉が始める。尼将軍政子がいかに重圧をはねのけるのかは次回へ。

一度乗った子殺しの船である。政子の葛藤と実朝暗殺事件の推理?。

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