見出し画像

我が先祖に係る彦根藩祖井伊直孝

天正9年に遠江の要衝、高天神城を勝ち取るまで、家康は武田に対して臨戦態勢で臨んでいた。家康自身、何度も出陣し、その近習には新規に加えられた遠州井伊谷の井伊氏直系を継ぐ直政もいた。

高天神城周辺の出城の攻略戦が直政の初陣だった。攻略戦で幾度も功績を挙げ褒美をもらっていた。

天正6年(1578年)直政18歳。家康は武田が遠江攻略の拠点としていた田中城(現我が故郷焼津市に隣接する藤枝市)を攻めた。これが直政初陣との説があるが長い月日を費した攻城戦は、以後家康が最も愛着を寄せる城となっていた。

駿、遠の二か国を新たに手にした家康は駿府に居住し駿河一円の経営に着手した。
直政は新参者の近習であったが当時では異例の出世を遂げていた。
1万3千石(駿河田中城攻めで功労等)を賜り高録の直参となっていたのだ。
この時の領地は田中城に隣接する現焼津市にある駿河国益頭郡方の上庄鷹峰であった。

私事であるが私の父方の祖母の出身がこの直政の初領地の隣にある中里村の豪農の村松家である。この「方の上庄」は古来朝廷や神社への神饌地、御厨であった。御厨(みくりや)という権威ある土地を若干18歳で賜ったのは家康の信任がいかに強かったかがわかる。

天正12年には駿府城の修築に着手した家康は、その工事期間、3月から7月まで田中城に滞在して、経営を監督した。
 家康は、よほど田中城が好きだったと見え、西上、東下の際は、必ず田中城に立ち寄り一泊したり、時には滞在するほどであった。

家康はまた鷹狩りが好きで、各所で頻繁に催した。麾下の士気を鼓舞するためと、同時に民情視察もかねていた。田中城はその根拠地としてよく利用したのだ。

田中城隣接地を領有した直政は当然の如く家康の鷹狩の警護や駿河経営の補佐のため、田中城の城番の如く滞在したのであろう。

忙しい領地の管理は隣村、中里村豪農村松家からの手助けがあった。そんな縁で村松家の当主は、直政の詰める田中城で直政の身の回りをさせるべく娘を侍女として出仕させた。そして直政のお手付きとなったその娘は秘かに中里村実家で男子を生んだのだ。

しかし、家康の勧めで主家筋松平康親の娘、を嫁にした直政は極度の恐妻家であったため村松家女の出産は秘密裏に行われたがその年、徳川家は関東移封となり直政は直参初の大名として箕輪城を賜り家康に従った。

小田原の役終戦とそれに続く引っ越しで多忙を極めた直政、その後は領地経営、更なる高崎移転と奔走しいつしか弁之助とよばれた直孝とその母親を駿河の片田舎に6年間も打ち忘れた存在とした。

直孝母は息子の将来を憂い、幼子の手を引き駿河を離れた。箕輪城下では、直政の行列目掛け決死の覚悟で認知を名乗り出た。

以後母親が消息をたったのは認知と引き換えにその命を絶たれたのだろう。

城にも上げられず下野の田舎で秘かに育てられたこの男子、弁之助こそが彦根藩祖井伊直孝であり今も駿河中里村の我が祖母実家の地に産湯の水を汲んだ井戸跡を残す。
その誕生は天正18年(1590年)、2月11日のことであった。

祖母の実家跡に残る直孝産湯の井戸

庶子であった直孝が何故正妻の産んだ兄、直継を抑え井伊家の家督を継ぐようになったかは、拙書:小説「井伊直政、直孝親子物語 Amazon版」をご覧ください。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?