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久松真一その思想と生き様 1

私は京都に本拠を置くFAS協会の末席を汚すものである。私は創設者である久松真一氏の著作を通し影響を受け,久松氏の没後であるが入会し今日を経ている。

久松真一は宗教哲学者であり抱石庵(ほうせきあん)と号した。

後近代の生き方を探究するFAS協会を創立し、京大に心茶会という茶会を創設した氏は岐阜市に生まれ、浄土真宗の信仰に育まれたが、その信仰に疑いをもった。
しかし、京都帝国大学で西田幾多郎(にしだきたろう)の宗教学概論の講義に感銘を受け、西田の紹介により妙心寺僧堂師家池上湘山(いけがみしょうざん)(1856―1928)のもとで禅の修行に励んだ。

その後学者として禅者として大成していく中でポスト・モダニストとして、中世の神律、近代の自律を批判し、無相の自己に目覚めることを説くようになった。

京大に入って久松を揺るがしたのは桑木厳翼と西田である。ちょうど『善の研究』が発売され、とびついた。当時は倫理学の助教授だった西田の講義も聞いた。たった一回しかおこなわれなかった「宗教学概論」の講義には身が震えたようだとは松岡正剛氏の弁。


久松青年は真面目を通り過ぎ、真に真面目過ぎた。自身を顧みてその生活信条、考え方全ての体たらくを強烈に反省した。
否反省しすぎたきらいがある。
自分がいま学ぶ京大の哲学、すなわち言葉の哲学の無力を感じ、自分の生命力の空しさを覚え過ぎた。そこで宇治黄檗の禅寺に入って、叩き直してもらおうという気になっていた。大正4年の大学卒業間近なころである。

 ある夜、久松はどろどろの決意をかためて下宿を出ると、このことを敬愛する西田にだけは言付け、そのまま宇治黄檗に走ろうとして西田の自宅をたずねた。

 若者の決意に西田は驚いた。まして彼は、今教える彼の学生である。心境はわかるが、卒業論文の口述尋問も目前なのだから、それをすましてからでもいいだろうと言った。出端(でばな)を挫かれた久松は意気消沈して下宿に戻り、翌日、西田に手紙を書く。

その文面が「学究生活の思い出」に残っているのだが、なかなかものすごいと読む人のほとんどの感想である。

 「私の行為の手の血管内に濁れる不潔なる血潮が流れては居なかつたでありませうか。私の衣服、帽子、帯の陰には虚飾の悪魔が紅い舌を出しては居らなかつたでありませうか」といった文言が連綿と綴られ、「何といふあさましいことでござりませう。私は一刻も早くその大鎌よりのがれる方法を講ぜねばなりません。私が先生のお宅へ伺ひました時は、真の私の悲しみの叫びが頂点に達した時でありました」というふうに、続く。

 やむなく西田は久松を呼び出して、まず禅籍を読んでみたらどうかということ、そのうえでなお不足を感じたら禅の修行に入りなさいと勧めた。久松は西田にほったらかしにされたと感じた。鬱々として、京都の暑い夏を「罪火もゆる心の夏の暑さかな」とか「月見んとする時雨する間を地獄堂」といった句をノートに書きつける。

その年、秋になって西田は、久松の身を洛西仙院の植村宝林を介して妙心寺の池上湘山老師に託した。約束を守ったのである。

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