見出し画像

合理にして不合理

表題は矛盾のことである。合理とはその対極に不合理を含むから合理である。
だいぶ昔、京都のFAS協会に参加する頃の話である。
自分の携わる自営業の仕事も忙しく家庭を持ったことからも経済的にも安定しなければ家族への責任も果たせない時代だった。

色々なことから自由になりたいと思い大手製造業を退職したのに現実はその逆の人生となり当に矛盾的な人生を送る破目になった。

日本語の矛盾の語源は中国の古典『韓非子』に出てくる「矛と盾」の故事からである。
物事の筋道や道理が合わないこと、つじつまが合わないこと、一貫性が無いことが一般的な意味合いとなる。

英語:のcontradiction や ドイツ語Kontradiktion に対する翻訳語でもあるが論理的に二つの命題が対立する状態、または「Aである、かつ、Aでない」状態を示す。哲学上に由来するヘーゲルの哲学やマルクス主義の慣用語でもあり、弁証法における矛盾。アウフヘーベンの関連語である。

contradiction を「矛盾」と訳したのは、明治時代の井上哲次郎著『哲学字彙』に由来するそうだ。、英語の contradiction には反論・反駁という意味もある。

話を冒頭のFAS協会に戻せば、当時の協会の委員長、山口昌哉氏は京大、竜谷大の名誉教授でありソルボンヌ大学へ留学経験もある数学者であった。著書は『カオスとフラクタル」、数学音痴の私には難しい本だ。
毎年5月連休には京都で総会と会計報告が行われ終了後記念講演が行われるのが恒例だった。

その年の演題が『合理にして不合理』だったと思う。
一晩京都に泊まり会場に向かったが参加者の会員は学者然とした人や論客が多く私のような浅学の者はただ聞くための参加であった。その時の講演者が誰であったか記憶がないが協会員の何方かに教えを受ける、どこぞの大学の学生だったのかもしれない。
今思えばこんな事を講演したのだろうと思う。

不合理という表現は、「論理・理屈に合わず、思考や話に筋が通っていないこと」を意味しています。
また「(非学術的で)一般的な場面・対象や対人関係のやり取りの矛盾」で使われやすく、「不合理なシステムを改善する」などの例文で使用できます。

不合理に近い言葉に非合理があります。非合理」と「不合理」の意味の違いを、分かりやすく説明すれば、「非合理」というものは、「論理や道理に合っていなくて矛盾していること」を意味します。

また「非合理」には、「合理的な理性(知性)や論理的な思考ではとらえきれないこと」を示す哲学用語としての意味合いもあります。

ですから「不合理」は、「論理や理屈に合わず、筋が通らないこと」という「非合理」とほぼ同じ意味を持っています。

ただし、「不合理」のほうが「非合理」よりも、「日常的な場面・普段の対人関係でのやり取り」でより頻繁かつ自然に使われます。

「非合理」は「理性やロジックでは把握できない」という哲学用語の意味を持つように、「不合理」よりも「哲学・論理学・公式な場面」で使用されるという違いを指摘できるのです。

私たちが、日頃あたりまえに合理的な価値基準に基づいていると考えている物事は、本当に合理的なのだろうかと考えたことがあるだろうか。

合理的だからこそわかり合えていないということはありえないのだろうか。 そして、人間のもつ「不合理さ」は不必要なものなのだろうか。そんなことが講演の前提条件にあったのだろう。

FAS協会は禅者であり京都大学で宗教学等を論じた久松真一先生の設立した団体であることからして、彼に影響を受けた学者や一般の市民が集うものである。ですから話の内容は宗教哲学に沿うものになったのだろうと記憶する。

FAS協会出版の「久松真一仏教講義」全四巻のうち第一巻の中に
宗教的非合理性・・非合理なるもの、合理と非合理、宗教的非合理の合理性がある。恐らく演者はここから出稿しているのだろう。

私たち人間の根底には、絶対矛盾するものがある。絶対二律背反を根源とするものである。この絶対二律背反を根底とする限り私たちはどうあっても救われない。したがってここを突破し なければならない。

先ず私たちが矛盾的存在であると意識することが大事となる。それは私たちの今が救われていないという自覚である。
具体的には罪と死の二つからは、どのようにしても逃げられないという現実認識である。更に具体的に言えば価値と反価値の問題である。

道徳的な罪を解決しても、芸術の美醜と科学の真偽という価値反価値の対立が問題となる。これは、善、真、美または「清いもの」を理性とし、悪、醜、偽または「汚れたもの」を反理性的なものとするから理性の中に理性的なものと反理性的なものの対立があり、このような理性、反理性という間に成立する罪というもの自体が問題となる。

この罪は善に対する悪という問題ではなく罪自体の理性的、反理性的という二律背反性的根本構造が問題となるのだ。その様な対立があること自体を罪と問うのだ。

反理性的なものを善として理性という立場で進めても構造そのものである善悪の二律背反を脱することはできないのだ。

死の問題もそうだ。人は死を回避する。生きることにだけ望みをかけどこまでも生を離れない死、生死的死であり、生死的生である。
生きる限り死があり、死があることにより生があるのだ。これは換言すれば存在・非存在であり更に言葉を換えれば有と無の問題となる。

この問題は人間が限定されたもの、相対的なものとすることにより起こる問題なのだ。
存在非存在・価値反価値の二律背反は両者一体となった一つの絶対二律背反として自覚しなければだめなのだ。

人間の本質構造は、その根底に自己自身ではどこまでも統一できない生死の絶対対立がある。この絶対対立を自覚し,
人はこれを越えねばならない。そこに真実の自己が見られるからである。

私たちの日常は生死の混とんとした生活だ。であるから、そこには本当の自分は自覚できない。私の生が真に死というものに撞着した時にこそ真実の死、真実の生活が見出される。

日々忘れられた死に真実向き合った時生死の混沌は生と死の絶対対立に転じ純粋かつ具体的な生が認識されるのだ。この生は日常をただ生きる生ではなく根本的に問題化した生だ。

その時私の思惟の源泉、知情意の根源が明らかになる。死の打ち破り方が知の根源であり、その打ち破る時、打ち破れない時の快不快が感情の根源で、死を打ち破ろうとする力が意志の根源なのだ。

全体的な生命の問題化とはこの知情意の根源において、生命の絶対危機として、生命の絶対苦悶として、生命の絶対ジレンマとして現れる。これが自分自身では死を克服できないと自覚されるのだ。
このような存在の一体的自覚こそが、あらゆる罪と苦の危機から抜けだすことができると久松氏いうのだ。
それは人間を相対視、限定されたものとすることからの超越なのだ。結局それは、私たちの自己は自己を超えたもの=絶対者において成立しているという事実に他ならない。

限定されたもの、相対的なものという自己の自覚の突端で自己の底である絶対者(絶対否定)に突き当たることで絶対者が自己の存在根拠として自覚できるのだ。
私たち自己が、その限界と成立根拠を知るということはその根拠たる絶対無限者を前にして自己の力を放棄することなのだ。死を真の自己自身の問題としてとらえた時、個は繰り返さない、真の生まれ変わりはないという永遠の死の自覚を得るのだ。

私たちはそもそも、絶対者の自己否定から成立しており、存在そのものが罪であれば、道徳的な善悪の価値観から言えば不合理と言わざるを得ないがそこが私たちのもう一つの自己矛盾の側面である。

私たち人間の罪悪性は現在によるものであるから、自分自身では脱する事は出来ない。私たちの罪悪の救済は信仰にあるのだ。信仰といっても俗世間的信仰ではなく絶対者の意志、呼び声を聞きことである。そこに自己否定があるからである。

自己の根源者である絶対者に対し自己自身を投げ出す、自己を捨て去る、自己を恥じる自覚である。それが宗教で言う回心であり自己の転換である。

哲学者西田幾多郎は「我々が自己意志の突端で絶対者に出会う時、その結果が自己自身を超えるものならば、歴史を超え、過去未来を超えた絶対の自由を得たことになるのだという。
人間が限定を脱し須からく自由になった時、矛盾が消え多(差別、個別としての多、我々の自己)と一(平等、絶対的一者)とが本当の一つとなる。

参考:西田と久松の救済の問題、日本哲学史研究


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?