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日野富子 2

室町幕府8代目将軍・足利義政とその正室・日野富子は、子宝に恵まれないという問題を抱えて、出家していた弟・義視(よしみ)を養子として迎え、後継者にすると決めていました。。

しかし、寛正6年(1465年)に義政と富子の間に息子・義尚(よしひさ)が生まれたことで事態は一変します。

親子の情とすれば当然であるが、富子は、息子である義尚に跡継ぎを譲ることを望み、義政も「義尚を9代目将軍とする」と後継将軍変更を申し出ます。

もちろん、これまで跡継ぎとされていた義視は反発します。そして、将軍家は「義視派」と「義尚派」の2派に分かれ、応仁の乱へと発展するのです。1467年、応仁の乱が始まりました。

元は将軍家や大名家の家督争いから始まった争いでしたが、さまざまな勢力の思惑、寝返りと、国を2分する大きな争いになった。

応仁の乱は、足利義尚・畠山義就・山名宗全の「西軍」、足利義視・畠山政長(畠山持富の子)・細川勝元の「東軍」と言う二派に分かれ爭いました

足利家将軍家のお世継ぎ問題が争いの発端ですが、争いの中心(大将)は宗全と勝元です。

最初は将軍家が後ろ盾についた東軍が優勢でしたが、新たに守護大名・大内政弘が西軍に参戦したことで、さらに争いが激化、大内氏は家督争いとは関係のない、瀬戸内海の制海権を理由に戦いへと参加します。

戦いが11年もの長きにわたると厭戦気分も増し、東西両陣営も戦いの目的意識も低下し、自分たちが何のために戦っているのか分からなくなっていきました。

応仁の乱は、京都が主戦場です。激戦の最中、京都のお寺や建物の多くは消失してしまいます。

金閣寺・伏見稲荷大社・清水寺・仁和寺などは、応仁の乱の争いで全焼してしまった。現在のお寺や建物は、再建されたものになります。ほかにも文化的な価値のある史書や歌集も燃えてしまったと考えられているそうです。

また、争いの影響により、京の街で暮らす人々は、物資不足や疫病などに苦しんでいたといわれています。応仁の乱が激化しなければ、今も文化的な建物や書物が残り、民衆の暮らしも違うものだったのかもしれません。

応仁・文明の乱が勃発する。富子は戦 乱で国が疲弊する中、京都七口に関所を作って 関銭を徴収し、米相場や高利貸しなどから賄賂 を受け取るなどしていた。

そして、幕府の財政 は富子の財力により賄われていった。

人々は彼女 の利殖行為に対し、批判を強めていく。政治や 権力に貪欲な母富子と不和になった義尚はその 後若くして死に、次いで夫義政が没すると、富 子は義視の子で義政の養子となった義植を将軍 職に擁立する。しかし、富子は義植にも反発さ れると、堀越公方足利政知の子、義澄を将軍に 就け発言力を維持する。富子の晩年は近江で過 ごし、明応5(1496)年に 57 歳で死んだ。

富子の悪評は将軍の権力を盾にフィクサーとして暗躍した点とそれを支えた財力への執着なのだろうが、もともと室町幕府の財源は直轄領が少なく、安定的かつ圧倒的な財源が確保できていなかったことが問題だった。
ですから、日野富子が財テクに走ったのは無理からぬことでした。

わずかな勢力の旗本や近衛兵では事が起こっても武力で制圧することもままならず、3代将軍義満のようなカリスマがあれば諸侯にも舐められづ将軍家は安泰であったが義政の時代になると、お金と兵力のない将軍家はなめられても仕方がない存在となっていたのだ。

要は室町将軍制度は、有力守護大名たちが互いをけん制しあう連合政権合従の場で将軍家の立場は、とても不安定であった。

おまけに将軍職につけようとした息子は真偽は定かでないが天皇との不義の子であるとの世評が知れわたり、日野富子にとって、息子の権威付けを計ろうとすれば、財力を効果的に使うしか方法がなかったのだ。
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