応仁の乱

第四巻 第一章 室町の平和

〇鹿苑寺(金閣寺)の一室
足利義満(三十八歳、入道姿)が足利義持(義満の息子、十歳、すでに元服して第四代将軍)と会話している。
N「南北朝を統一した三代将軍・足利義満は、応永元(一三九四)年には、皇族以外の朝廷での最高位となる太政大臣に就任、翌年出家した」
義満「余が出家したとたん、こびへつらって出家する者が続出しておるそうじゃな」
義持「皆、父上の余徳を慕ってのことかと……」
義満「お前までお

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京都府内の石造物⑳:泉橋寺五輪塔(伝・光明皇后遺髪塚)

名称:泉橋寺五輪塔

伝承など:光明皇后遺髪塚(南都焼討の犠牲者供養塔)

所在地:京都府木津川市山城町 泉橋寺

「橋寺」の通商で知られる泉橋寺は、奈良時代に行基が開いたと伝えられる古刹である。

境内には重要文化財に指定されている鎌倉時代後期の五輪塔があり、かつては光明皇后の遺髪塚と呼ばれていたが、発掘調査の結果、平重衡による南都焼討の際の犠牲者供養塔であることがわかった。

五輪塔は完形で、

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七夕祭り

今日は地元の七夕祭りに参加してきた。
何とこの祭り、約450年続いてる、歴史ある祭り。
応仁の乱が終わり、平和な世の中になったことを祝い、始まったとか。
子どもたちが竹に短冊、スイカ提灯を飾り町を練り歩く。大人達は山車を引く。この地方に伝わる七夕の囃子歌を歌う。僕らが子どもの頃から何も変わらない、祭りの形。

この日ばかりは老いも若きも、七夕祭り一色。沿道には行列を見物する人でごった返す。

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嬉しいです!
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関西旅日記(29):いよいよメインイベントの葵祭!⑨-帰りに立ち寄った応仁の乱勃発の地

こんにちはこんばんは、ナオティです。葵祭編はとりあえず前回で終わりなのですが、帰り道のためまだ続編扱いです。

今回は帰り道に寄ったところをご紹介しますね。

僕たちは上賀茂神社を出た後、行きの時に来た道を使って京都の中心部に向かいました。一度鴨川沿いを南へ行き、その後北大路あたりから烏丸通りを進むルートです。

進んでいる途中で友人が応仁の乱が起こったところに連れてってくれるというので、一緒に行

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歴史で食っていく2 ~歴史論争を食材にして~

1、井沢VS呉座論争

『逆説の日本史』シリーズで有名な井沢元彦さん。『応仁の乱』でベストセラーを飛ばした呉座勇一さん。このお二人が、歴史について論争をされています。

そもそもは、「アゴラ 言論プラットフォーム」上で、百田直樹さんの『日本国紀』について、八幡和郎さんが評論したことから、色々な論客を巻き込んで、論争が続いています(2018年11月17日付)↓。

※百田尚樹さんの『日本国紀』はこち

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歴史に「正解」を求める気持ちこそが危険極まりない件

▼いま流通している歴史観は、その社会の価値観を映す場合がある。そのからくりを炙(あぶ)り出す優れたインタビューが、2019年5月23日付の日本経済新聞に載っていた。

歴史学者の呉座勇一氏。「令和の知をひらく」シリーズの4回目で、見出しは

〈絶対の正解 求める危うさ〉

▼え? 「正解」を求めるのが当たり前じゃない? と思った人は、要注意。筆者もそうでした。呉座氏いわく、

〈大学で教えていると

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応仁の乱 大学講師と高校教師のコラボ日本史

細川勝元と山名宗全は連携して文正の政変を起こし伊勢貞親を追放します。しかし、1467年1月、山名宗全は畠山義就と手を組み、細川勝元が畠山政長を支援したため、応仁の乱が始まります。応仁の乱に至る数か月の動きから室町幕府の体制を考えます。

日野富子と応仁の乱 大学講師と高校教師のコラボ日本史

日野富子が応仁の乱の原因ではない、ということだけは明らかになっています。日野富子と足利義視は対立していたのではありません。では、何故、応仁の乱がおこってしまったのか。

応仁の乱Ⅰ 畠山家・斯波家の家督争い

細川勝元と山名宗全は連携して畠山家に対抗していました。畠山家で家督争いが始まると両者は畠山政長を支援します。その頃、斯波家でも斯波義敏と義廉が家督を争っており、嘉吉の乱で滅亡した赤松家は播磨守護の回復をめざしていました。応仁の乱の収束を困難にした畠山・斯波・赤松の事情を説明します。