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大正デモクラシー

 日露戦争は、日露両国に大きな負担を遺し終了した。(日露戦争後ロシア革命を抑圧するため日本はシベリアへ出兵した。その思惑のため米の統制と出荷を制限した商人や地主への米価高騰への反発意識は一つの大衆運動として日本じゅうに広まった。この騒擾が大正デモクラシーへのきっかけとなった。写真は、米騒動を婦人の立場からとった映画から取材編集した)

 ポーツマス講和会議(明治38年(1905年)8月10日~9月5日)では、戦勝国である日本は賠償金を受け取ることができませんでした。そのため、戦争犠牲者の遺族や戦費拡大に伴う増税に苦しんできた人々の不満が高まりました。
 その不満は、同年9月5日から7日にかけて、東京・日比谷に人々が集結して国民大会を開くまでに到り、付近の内務大臣官邸や講和賛成を唱えていた国民新聞社を焼き討ちするというかたちで噴出します。
警官隊や軍隊がこれを阻止しようとしましたが、群衆との衝突が起きました。

 このような焼き討ち事件は単なる騒擾では終わらず、新しい時代へと動き出す切っ掛けとなりました。

 中小企業主や商店主といった中間階層者に加えて、都市におけるホワイトカラーなどの新中間層、さらに労働者も加わって「民衆」が誕生したのです。所謂民衆時代の到来を予見させる社会風潮が現れ始めたのです。

 日清日露戦争は薩長閥政府が引き起こした戦争であり、ある意味日本社会は重苦しい時代へと突入し始めていたのです。

 この「民衆」の目覚めというか、デモクラシー運動の主役となって藩閥政権からの脱却をはかりたいと言う民衆意識は第一回普通選挙を実現させるに至りました。
 これらの時代、大正14年(1925年)までの政治的民主化の過程は、大正デモクラシと呼ばれています。

 大正デモクラシー運動を代表する思想として広く知られるのが、東京帝国大学教授の吉野作造博士(1878年~1933年)  が唱えた民本主義です。
 吉野が言う民本主義は、単に概念的なデモクラシー思想に止まるものではなく、体系的な理論として提示された論説でした。

 吉野は民本主義を「一般民衆の利益幸福並びに其の意嚮ーこう(心の向かうところ。このようにしたらどうかという考え。思わく)に重きを置くという政権運用上の方針」としています。

 つまり天皇に侍る2,3人による政策決定である閥族政治が、「人民一般の意嚮に聴く」議会政治に比べて如何に非合理的で非立憲的であるかを示し、政党政治の実現、選挙権の拡張、衆議院の重視などを主張したのです。

 吉野は、主権在君の明治憲法下で立憲主義への筋道を切り開くために、この「民本主義」という言葉に実践的なデモクラシーの理念を託して、果敢に取り組んだのです。

 戦前の警察行政にあたった内務省の警保局保安課による、米騒動についての資料の一部には、デモクラシー思想が吉野作造をはじめ、大山郁夫、北澤新次郎といった学者だけではなく、長谷川如是閑や鳥居素川などのジャーナリストを通じて社会に広まっていった経緯がよくわかります。

政治の民主化を求める動きと影響

国民の意思を反映した政治を求める声の高まりは、実際の政治に、どのような影響を与えたのでしょうか。私を含め一般人にとっては地味なテーマですが順次その流れを追ってみる。

「第一次護憲運動」と「大正政変」

元号が「大正」に変わったときの内閣総理大臣は、長州藩出身の「桂太郎」です。
 彼は、この第三次内閣でも、閣僚の多くを長州藩や薩摩藩の出身者で固める藩閥(はんばつ)政治を行っています。こうした政治に対し、憲法で定められている「議会を尊重する政治」が行われていないと、反発する人が現れたのです。

 藩閥政治に対抗できると期待されていた政党「立憲政友会(りっけんせいゆうかい)」の「尾崎行雄(おざきゆきお)」を中心に、「憲法に基づく政治」を求める「第一次護憲運動」が起こり、全国に広がっていきました。

 最終的に、桂内閣は退陣に追い込まれます。これが「大正政変」と呼ばれる出来事です。

日本初の「政党内閣」が誕生

 桂内閣の後も、数代にわたって藩閥政治は続きましたが、民衆の勢いは止まらず、ついに本格的な「政党内閣」が誕生することになります(1918)。

この政党内閣を率いたのが、立憲政友会の総裁だった「原敬(はらたかし)」です。彼は、陸軍・海軍・外務大臣以外を立憲政友会の議員で組織しました。


原敬は、藩閥とは関係のない藩(盛岡藩)の出身で、華族でもなかったため「平民宰相(へいみんさいしょう)」と呼ばれて、国民からの期待が大きかったとされています。在任中には、高等教育機関の充実や産業の推進、交通網の整備などを行いました。

 しかし、普通選挙を求める声が高まっているにもかかわらず、実現には至らなかったため、国民は不満を抱いていました。

きっかけは「米騒動」

日本初の「政党内閣」が誕生するきっかけになったのは、1918(大正7)年に起こった「米騒動」です。日本史上で最大規模の民衆暴動といわれており、この暴動によって、当時の内閣は総辞職に追い込まれました。

 「米騒動」が起こった原因は、第一次世界大戦中のインフレで米価が上昇したことや供給不足などが挙げられます。ロシア革命に干渉するための「シベリア出兵」が決定すると、軍隊への補給で米不足になることを予期した商人らが大量に米を買い占め、さらに米価が上昇しました。

生活の困窮や不安が重なったことが、民衆による大暴動につながったのです。

「第二次護憲運動」と「普通選挙法」の成立

清浦奎吾(きようらけいご)内閣を総辞職に追い込んだ1924(大正13)年の倒閣運動を「第二次護憲運動」といいます。

清浦内閣は、選挙で選ばれていない貴族院議員を中心に組織されていたため、「特権内閣である」と非難の声が上がりました。

「立憲政友会」「憲政会」「革新倶楽部」の三政党が中心となり、「第二次護憲運動」を起こしたのです。このとき公約に掲げていたのが「普通選挙」の実現です。

総選挙で三政党が勝利したことで、加藤高明(たかあき)内閣が誕生し、「普通選挙」の実現に向けて動きだしました。

 1925(大正14)年に「普通選挙法」が定められ、財産や身分に関係なく25歳以上の「男性」に選挙権が与えられます。それを受けて、1928(昭和3)年に初めて普通選挙が行われたのです。

1925年に成立した「治安維持法」

1925年には、国家体制の変革や私有財産制を否定する政治活動を禁止する「治安維持法(ちあんいじほう)」も設立されました。政府は普通選挙の実現により、労働者や共産主義者の運動が激しくなることを警戒したのです。この治安維持法こそ庶民の権利を抑圧し日本を破滅に道に追い込んだ一つの悪法にほかならない。

普通選挙の実現で、ある程度は民主化を認めながらも、他方で政府にとって都合の悪い考えを持つ者を抑え込もうとしていたのです。

1928年には、罰則の最高刑を死刑に引き上げたうえで、全国規模で共産主義者への厳しい弾圧が行われました。

労働者の地位向上を求める社会運動と影響

政治の民主化を求める運動は政治に留まらず、労働環境にも影響を与えました。労働者の地位向上を求める運動は、どのよう環境下でどのような経過を辿ったのでしょうか。

「友愛会」の設立

ある種の大衆運動である「米騒動」によって、内閣が倒れ本格的な政党内閣が誕生したことは、国民の意識に変化をもたらしました。自らの行動が政党政治への道を切り開いたことで、国民は運動を組織化する重要性を認識し、労働組合の増加や労働運動につながったのです。

1911(明治44)年に、労働者を保護するための「工場法」が制定されましたが、工場経営者の反発を受けて施行が延期されるなど、不十分な内容でした。

そのため、労働条件や環境の改善を求め「友愛会(ゆうあいかい)」という労働団体が1912(大正元)年に設立されたのです。

1919(大正8)年に「大日本労働総同盟友愛会」、1921(大正10)年に「日本労働総同盟」と改称・発展し、活動を続けました。1920年には、日本初のメーデー(労働者が集まって権利を主張する日)も開催されています。

「小作争議」と「日本農民組合」の誕生

労働運動とともに、地主から土地を借りている小作人(こさくにん)が、小作料の引き下げを求めて地主と闘争する「小作争議」も激しさを増していきます。

当時の小作人は、税金のほかに、土地を借りている地主に小作料を支払う必要があり、生活は困窮していました。

小作人たちは、「米騒動」にも発展した米価の上昇で、大きな利益を得ていた地主に対して、小作料の引き下げを求めて争ったのです。

このような状況のなか、小作人を助けるために「日本農民組合」という組織が誕生し、団結して環境の改善を訴えたのです(1922)。

自由や平等を求める社会運動と影響

身分や性別による差別に対しても、自由や平等を求める社会運動が盛んに行われました。具体的に、どのような社会運動だったのでしょうか? 社会に影響を与えた主な運動について紹介します。

部落問題と「全国水平社」の結成

江戸時代、身分の低い人たちは、居住地や職業が決められていただけでなく、結婚や服装も規制されるなど、厳しい差別を受けていました。

1871(明治4)年に身分制度を廃止する「解放令」が公布されましたが、差別の意識が変わることはありませんでした。急激な近代化で部落地区の産業が衰えても、差別により新しい仕事に就くのが難しく、さらに貧困化が進みました。

こうしたなかで、自由と平等を求めて、1922(大正11)年「全国水平社(ぜんこくすいへいしゃ)」が結成され、部落解放運動が全国に広まったのです。

「新婦人協会」の設立と婦人参政権運動

女性の地位向上を目指す運動も見られました。「平塚らいてう」は、1911(明治44)年に「青鞜社(せいとうしゃ)」を立ち上げ、「青鞜」という文芸雑誌を通して地位向上を訴える活動をしました。

1920(大正9)年には「新婦人協会」を設立して、女性の参政権を求めて活動し、女性の政治活動を禁じた法律が改正されたのです。

1924(大正13)年には「市川房枝(いちかわふさえ)」らによって「婦人参政権獲得期成同盟会」が結成され、参政権を求める運動を行いますが、実現しませんでした。

女性が参政権を得られたのは、第二次世界大戦後の1945(昭和20)年です。

「大正デモクラシー」により、民主主義へと歩みはじめた

大正時代は、劣悪な労働環境や生活の困窮に加え、国民の権利を尊重する理論が広まったことで、自由や平等を求める「大正デモクラシー」につながりました。

歴史的な出来事は、政治の民主化を求める運動によって、日本初の「政党政治」や「普通選挙」が実現したことです。労働者の地位向上や自由・平等を求める社会運動も盛んに行われ、民主主義へと歩みはじめたきっかけになったといえるでしょう。
以上の記事はWebでの「吉野作造と大正デモクラシーを参考加筆しました。


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