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日野富子

縄文の母性主義のことに触れたのでそのつながりとして日本史の中で特に気になる数人の女性について個人的な史観を交えながら少し書いてみた。

日野富子という女性がいる。尼将軍と言われた頼朝の妻、政子とある意味で並ぶ女性である。
世間では悪女という定説もある。

富子は室町足利幕府8代将軍義政の妻で9代将軍義尚の母。公家日野政光の娘である。

16歳のとき義政に嫁し,4年後に最初の子を生んだが,その子はすぐに死亡している。
義政とは夫婦仲はよく仲睦まじかったが,長く子供のいなかった彼らの間に義尚を生んだ事が微妙な問題となってきた。

既に義政の養子として元服も終えていた義政の弟義視との間は微妙となり
やがて、跡目を狙う定石道理の反目対立が生じる。

それだけではなくこの争いは応仁の乱の原因ともなった。
富子が義尚の後ろ盾として政治への介入を強めるのは兄、日野勝光死後のことである。

義尚への富子の補佐は義政の承認するところでもあったが義政自身は当時政道に嫌気がさし東山の山荘にこもり趣味三昧の生活を送るようになり公武の制度は疲弊,退廃していった。

先ず、富子の詳細を述べる前に東山文化と言われる当時の社会事情の概略を述べてみよう

室町時代は、さまざまな文化が発達したのですが、特に東山文化と呼ばれた文化は8代将軍義政の時代、彼が主導し、現在の日本人の価値観に近い生活様式や学問、芸術を指します。

彼の祖父3代将軍将軍義満が生活した金閣寺を舞台としたものが北山文化と呼ばれ、義政が住んだ銀閣寺に象徴されるものが、東山文化という。

北山文化の象徴金閣寺


政治に飽き、争いの日々にもうんざりしていた義政は、東山の別荘に引きこもって趣味に没頭します。と同時に、戦火を避けて訪れた芸術家や文化人を保護し、積極的に支援しました。

東山文化を代表する銀閣寺

義政は、将軍としては今一つでしたが、文化人としては非常に優れた人物です。彼がいなければ、東山文化の発展はなかったといわれるほど、重要な存在でした。

東山文化を一口で言えば、わびさびです。
「わびさび」は、「わび」と「さび」の合成語です。「わび」は貧しく質素な中にも味わいがある様子を、「さび」は古びたものの中に趣を感じる様子を表していますがそのようなものは生活とか政治に実利は生みません。ですから実質的指導者の義政が文化というか道楽に熱が入れば政道は廃れ社会は不安定になります。

政治、産業の中心地京都は将軍の後継者をめぐり応仁の乱という長い騒乱の時代へと突入していきます。その首謀者が、日野富子といわれ京都を灰塵にきした罪で稀代の悪女といわれるようになった。
次回は日野富子について語っていきます。

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