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量子もつれと人間の意識作用

2022年ノーベル物理学賞の続編として書いています。
意識とか思考といった活動がどういうものなのか子供のから考えてきた。創造主から生まれたものとすれば、それは意識外のものであり、あの世から生まれあの世に戻るのだろうと思っていた。成長し科学を学び哲学等をかじったおかげで何気なく生命というものが自己認識できるようになった。

しかしNHKなどで量子論をあっかった生命論番組を見るにつけ何とも言えない不思議さに包まれてきた。多くの神経生物学者の仮説は、意識を生じさせる因子は分子レベルではなく、ひとつの細胞もしくは複数の細胞における神経伝達物質の放出や活動電位の発生といった 神経レベルで存在しているという。

これに対して、意識はニューロンを単位として生じてくるのではなく、微小管と呼ばれる、量子過程が起こりやすい構造から生じるという論もある。

微小管とは、すべての細胞が持つ、タンパク質からなる直径約 25ナノメートル の管状の構造をした細胞骨格であるそうだが、脳内の神経細胞にある微小管で、波動関数が収縮すると、意識の元となる基本的で単純な未知の属性も同時に組み合わさり、生物の高レベルな意識が生起する、というのだ。

先の記事でも述べたが、量子力学においては、対になった2つの粒子が、空間的に離れているにも関わらず強い相関を示す現象がある。
「量子もつれ」と呼ばれるこの現象を応用すると、量子テレポーテーションという、1量子ビット分の情報を瞬時に転送することができる。

量子力学の状態は、いくつかの異なる状態の重ね合わせで表現される。このことを、どちらの状態であるとも言及できず、観測すると観測値に対応する状態に変化すると解釈する。これをコペンハーゲン解釈と呼び、観測する人間の意思が量子の状態を決める、あるいはその空間を支配している何かの意思によって決まる、という見方である。
物事が、人の意思あるいは神の意思によって決まる瞬間と言わざるを得ない。

子供のころから考えてきた巨大な宇宙空間のことや反して微小な生体現象を支配する意識とか意思、あるいは魂や心とはどういうものなのか、その中で我「思う」いう言葉が、思う力が物体を離れ、時空を超え、消えることなく、別の誰かに「何か」に伝わっていくことは、あながち荒唐無稽なことではないだろう。

私は過って立花隆の書いた臨死体験の本を読み不思議さに駆られたことがあった。
ペンローズは臨死体験との関連性についてこのように言う。
「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっているが、体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合、意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続けるか、あるいは別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」

臨死体験や生まれ変わりのことはさておき、人間は常に合理的で妥当な選択や判断を行っていません。私も日常生活の中では、なぜか理屈に合わない行動をとってしまう場合が多くあります。ほとんどの場合これは、私の持つ意識(意思)が原因なのでしょう。

ここでまた人間の持つ意思とはなんなのだろうという命題に嵌ってしまいます。

人間の思考のもつゆらぎは、量子力学の確率論による計算と一致するのだと聞いたことがあります。人間の意識は、脳内で起きる何らかの量子的効果によって生じている可能性があるというのです。

新しい研究では、有名な心理実験とともに脳内スキャンを実行して、人間の意思決定のゆらぎに作用する量子的な作用が脳のどの領域で起きているかを明らかにしようとしています。

哲学では、物事が必然的に決定されることを決定論、そうでなくその時々の自由な意思で決まることを偶然論と言うそうだ。

人間の行為は、決定論と偶然論が混ざっているといえる。

すべてが決定論とはいえない。人間は能力を後天的に獲得できるし、他人や物との縁起に従って行動が決められる。すべてが必然ではなく、縁起における自己の関連性を決めているのは、自由意志である。

すべて偶然論とは言えない。たとえば、人間は生まれてきた限り、死ぬことは運命づけられているし、他の動物と同様、本能という必然的な衝動により、行動している。

ただし、生まれたばかりの時は、ほぼ決定論である。生きる本能やDNAに従って能力を開発する。必然に沿って生きるということは、執着するような苦楽を伴わないが、生きる力にあふれている。幼子の幸せである。

やがて自我が発生し、縁起も複雑になる。すると自由意志に伴った偶然論の行動が増える。しかしながら複雑な縁起により、思う様にいかなくなるし、目的論に沿った未来の予測は当たることもあれば外れることもある。よって執着する苦楽が増大する。

この自然すべてが普遍的な因果的必然性によって決定されているというのがスピノザの立場だ。このとき、人間の欲求、意志、行為はどこに位置づけられるだろう。それらもまた普遍的な因果の連鎖の中に位置づけられねばならないというのが、スピノザの見方でもあるが。

どんな出来事も偶然起きるのではなく、原因があって起きるのであるが、それが起きる諸条件から一義的に規定されている。出来事は、起きた以上、それ以外の仕方では起きなかったのである。世界は必然性に支配されており、偶然が入り込む余地はない。

人間は、自らの意志で自由に行為する。このような「自由」という意識は、決定論によれば、自分の行為を決定している諸要因を知らないことからおこるのだろうか?

人間の内面や精神は物質界を支配する因果関係が入り込まない特別な領域であるように見えるのか、感情や思考などの現象は脳に起きている生理的な現象であり、生理的な現象は複雑な物理現象であるとするならば因果的に決まっていると考えるが、しかし、自由が存在すると考えるならば、自由は決定論と両立する。たとえば、識者によれば、水はそれ自身の法則に従って流れていくかぎり自由であり、逆に、せき止められれば自由を失う。人間もまた、状況や権力から強制されてでなく、自分の意志や欲求から振る舞ったのであれば、自由である。その行為が自由なのは、行為の原因が行為者の内部(意志、欲望など)にあるからであると。

ある出来事が起きても、それが必然的に起きたのか偶然なのかは、私には、わからない。宇宙の初期状態とすべての自然法則を知れば、その知識に基づき未来を予言できるが、何もかも予言通りには起きない。ですから決定論は全て正しいとはいえない。

物理学的な決定論はニュートン物理学に基づいているが、私がわずかに知る量子力学によれば、運動する電子の位置は確率的にしか分からない。量子の世界だけではない。ウィーナーは因果作用を含めた情報の伝達にノイズが不可避であり、物理学は物理現象を確率論的にしか扱えないと言うのだ。


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