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恐れ、知恵、戦い。弱小明治日本の見たもの ー日本海海戦ー

明治三十八年五月二十七日
四時三十分 対馬沖
哨戒艦『信濃丸』艦上

 月明かりに照らされたその光景を見た成川艦長は、「おおっ……」と言ったきり絶句した。
 感動はすぐ、恐怖に変わる。

 戦艦八隻を中心としたロシアの大艦隊が2列縦隊で航行する姿は、迫力、威圧などという言葉を越えて”神秘的”にさえ見えた。当時の日本海軍全力でも戦艦は四隻しかない。

「神が宿っているとでもいうのか……」
 しかし、その神は日本を滅ぼすために、ロシアのリバウ軍港から1万8千海里を航行してやって来たのである。
 その大航海を行っただけでも、神のなせる業と言えた。大事業を成し遂げようとするロシア艦隊の自信は荘厳な威容となり、見る者全てを恐怖させている。『信濃丸』乗員は一様に身体を硬くし、畏怖の眼差しをバルチック艦隊に向けた。

「近いっ、このままだとやられる、離脱するぞっ、面舵一杯ぃぃ!」
 成川艦長の声に全員我に返って舵を切り、そして叩き付けるように電文を打った。
『敵艦見ゆ、二〇三地点』

 成川艦長は、東郷平八郎率いる日本艦隊の将兵がこの光景を見たらどう思うかと想像すると、不安に駆られる。
「こんな大艦隊に勝てるのかっ? いや頼む、勝ってくれっ……」


明治三十八年五月二十七日
十三時五十五分 対馬沖
日本海軍 戦艦『三笠』

マストに黒、黄、青、赤を配したZ旗が青空にたなびいた。
『皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ』という意味である。
 吹きっ晒しの露天艦橋に立ち尽くす東郷平八郎連合艦隊司令長官は旗に一瞥もせず、左舷前方、距離1万3千メートル先のロシア・バルチック艦隊にツァイス製の双眼鏡を向けていた。
「敵も戦闘旗をかかげたぞ」
 東郷の声に幕僚たちが見ると、敵艦はすべて白地に青のクロスをかたどった旗を掲げている。
 ヘビー級のボクサーがファイティングポーズを取って、ライト級ボクサーに迫っているようである。
 幕僚たちは呆然とその大艦隊に見惚れ、次に背筋に悪寒が走り、顔を引き吊らせた。

「左の列の戦艦が弱そうだ。左を狙うか」
 東郷が言うと、背後に立つ秋山真之参謀が答える。
「いえ長官、敵は一列縦隊になりつつあります」
「うむ、そのようだな……」

 このまま直進すれば反航戦(すれ違いざまに撃ち合う)となり、砲を左に向けての戦闘となる。同航戦より射撃する時間は短く、敵にダメージを与えにくい。そのまま敵を逃がしてしまえばバルチック艦隊は旅順口に入り、大陸の日本陸軍は補給を絶たれて孤立、戦闘力を失う。

旅順要塞攻略、奉天会戦勝利の戦果は無に帰して、日本は敗戦するのだ。

 よって、東郷長官、秋山参謀の頭脳は、ともかく敵の前面に出て”先に行かせない”ためだけにフル回転している。どんなリスクを負ってでも、ロシア艦隊を右舷に見たい。
 今の日本にとって、連合艦隊が左右どちらで戦闘するのか、それは国の死命を決する重大事なのだ。

 距離は8千にまで縮まった。
 敵の主砲の射程に入りつつある。
『三笠』の砲術長は噛み付くように聞く。
「どっ、どちらの舷で戦闘するのですかっ!」

東郷は右手を高く上げ、左に振り下ろした。
「取り舵ですか?」
 『三笠』の艦長が不審そうに聞き返す。転舵中は敵に射撃しても命中しないので、なぜ自ら進んで不利な局面に持っていくのか疑念を持ったためだ。艦隊の回頭は、速力十五ノットだとすると1艦あたり二分間かかり、順番に主力艦が回頭を終えるまで、十分間以上の時間が必要である。
 さらに、回頭点ではこちらが敵に横っ腹を晒す体勢になり、また急激に速力も落ちる。つまり、ロシア艦隊は日本艦隊が回頭している一点にだけ砲撃していれば、日本艦隊を一隻づつ撃沈できるのだ。

 そして今、バルチック艦隊との距離は8千。
 敵の射程内に入った。こちらは射撃できない。
「艦長、取り舵だっ」
 参謀長の声に、艦長は叫んだ。
「とーりかーじ…… 一杯っ!」
 ロシア艦隊の射程内で、150度の敵前大回頭が始まった。

 この絶好のチャンスをロシア艦隊が逃すはずがない。
「敵、発砲っ!」
 回頭を終えるまでは、無抵抗で撃たれ続けなければならない。砲術長は、砲を撃つ前に、こちらがやられてしまうのではないかと恐れた。しかし、左正面の敵に対して取り舵ということは、右舷での戦闘ということだけはハッキリした。主砲を右に向け、右舷に配置されている砲手に砲戦準備の指示をする。

 日本艦隊の動揺とは反対に、バルチック艦隊では狂喜し、歓声が上がっていた。
「見ろ、日本人はナニを考えているんだ。自分で墓穴を掘っている」
「勝った! 神が東郷を狂わせたんだ!」

 先頭にいた旗艦『三笠』に砲撃は集中。命中弾48発。10m四方の甲板に5発も命中している部分もあり、バルチック艦隊の練度は決して低くない。後に続く戦艦『敷島』乗員は、水柱に包まれる『三笠』を見て、撃沈されたと思ったほどである。
 しかし砲弾はまるで、露天艦橋を避けているように飛び、東郷は微動だにせず、敵艦隊の動きをジッと見ている。

 東郷、秋山の計算では、『三笠』が沈み、自分たちが戦死するのは当然のリスクである。しかし、それよりも敵の前面に出てロシア艦隊を右に見る、それだけを最重要視したのだ。

 距離7千5百。ようやく『三笠』の主砲の射程内に入った。しかし、東郷は撃てと命じない。幕僚達は苛立ち、焦っている。
「長官っ!」
「主砲の射程内です!」
 砲座から絶叫が聞こえる。「撃たせてくださいィッ!」
 東郷は、無言を返す。距離7千でもなお無言だった。


明治三十八年五月二十七日
十四時十分 対馬沖
戦艦『三笠』

「距離、6千5百ぅっ!!」
 叫ぶような砲術長の声に、東郷長官は静かに答えた。
「撃ち方始め」
 砲術長は歓喜して各砲座に命令を伝えた。
「主砲、試し撃ち方、距離6千5百、ヨーイ、テェッ!」
 続いて、
「距離6千、当日修正っ、笛頭ぉ右寄せ2、距離っ、高め1ィ! ヨーイ、テェ!!」
『三笠』に続いて後続の戦艦『敷島』、『富士』、『朝日』が射撃。続いて装甲巡洋艦『日進』、『春日』も砲撃を開始する。

 距離5千。
 日本艦隊にとって、戦いの本番はここからと言っていい。
 つまり、戦艦の少ない日本艦隊は大口径砲が少なく、そのかわり小径砲はロシア艦隊より多い。その射程内に入ったのだ。
「副砲、速射砲、撃ち方始めっ」

 今までとは比較にならない数の砲弾がバルチック艦隊を包んだ。
 ロシア艦隊各艦は、今や火ダルマだった。

 距離4千6百。『三笠』の司令塔内に命中弾。艦内の戦死者は100名を越えた。6インチ砲に敵弾命中。砲員全員戦死。しかし、東郷のいる吹きっ晒しの露天艦橋には砲弾のカケラさえ飛んでこない。
 一方、バルチック艦隊の統制は乱れ始め、右に左に転舵している。しかし、日本艦隊は首尾一貫、徹頭徹尾、ただひたすら敵の前面に廻りこんで砲撃を続け、ついにバルチック艦隊の戦艦を全て戦闘不能に追い込んだ。

 ロシア艦隊司令長官のロジェストヴェンスキーは重傷、「幹部を集合させよ」と命令した後に意識不明となる。6インチ砲塔では狂気が渦を巻いていた。
「我々は勝った、アハハハっ、日本軍は砲弾が無くなった……」
「短艇はどこだ、戦勝祝いに魚を食おう。釣りをやるんだ……」

「なんでこんなところに日本人がいるんだ? オレは幻覚を見ているのか?」
 それだけは幻覚でない。既に戦いは終わり、日本軍の看護兵がロシアの将兵を収容している光景だったのだ。

 撃沈 戦艦6、巡洋艦4
 捕獲 戦艦2、巡洋艦2
 対して日本艦隊の損害は、わずかに水雷艇を3隻失っただけである。

 世界の海戦史上稀に見る、完全勝利。

 国力10倍、陸軍兵力10倍、海軍力2倍以上の大国ロシアを、明治の弱小日本は恐れた。

 しかし、明治日本の凄さは恐怖した後である。

 将兵たちは自らを見失わず、要らぬことで騒がず、状況を見定めて知恵にし、やるべきことをひたすらやり、戦い、そして勝利した。

 連合艦隊参謀、秋山真之は後に語っている。
「人間の頭に上下などない。要点をつかむという能力と、
 不要不急のものは切り捨てるという大胆さだけが問題だ」と。

 そして、令和日本の我々にも、彼らと同じ血が流れている。

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