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柳田国男『遠野物語』式・驚きのクマ対策

昨今のクマ被害については、ご存知の方も多いと思います。


わたし自身、登山中に5mの距離でクマに遭遇した経験があり、万が一襲われたときの対策を調べるうちにふと、こう思いました。
「クマが出没するのは、今に始まったことではないはず。クマに関するプロであるマタギは、どのように対処していたのだろう?」


昔のマタギの情報は多くありません。現在の猟師は銃を持っているので、一般人の参考にはなりません。
そこで思い当たった書物が柳田國男『遠野物語』。岩手県の物語集なので、クマの種類は”ツキノワグマ”となります。
民俗学に分類される書物ではありますが、ありましたありました。思いもよらなかったマタギの”対応”が……

内容は、古い文体で書かれているので、現在の言葉にしてわかりやすくし、またクマ対策と無関係な部分を省いた、”要約”となります。

※※※

1.『遠野物語』四十三話
上郷村に”熊”という名前の男がいた。
ある日、友人と二人でクマを狩りに、まだ積雪が残る六角牛山に出かけ、折りよくクマの足跡を発見したので追跡した。

すると、岩陰から突如、至近距離でクマが出現。
目が会った瞬間、人間のほうの熊はクマのフトコロに思いっきり、抱きついた。

一人と一頭は抱き合ったまま雪の斜面に転げ落ち、谷底まで転落。そのままザンブと川に落ちた。
人間の熊が下、獣のクマが上という体勢。
人間の熊は水中で下になりながら山刀を抜き、獣のクマに突き立てた。

戦い終わり、人間の熊はようやく、獣のクマを仕止めた。
人間の熊の背中には、クマの爪あとが数箇所あったものの、命には別状なかったそうだ。

マタギではありませんが、こちらも↓
2.『遠野物語拾遺』二百九話
ある女房が山に行き、自分の背丈よりも高い萱を分け入って進んでいた。
すると、目の前に大熊が現れ、たちまちドッと乗しかかられた。

女房はなすすべなく、倒れたまま、身動き一つしなかった。
すると、熊は手首、足、お腹や乳房までもまさぐっている。
やがて、熊はなんと思ったか、女房を沢のほうに落として去って行った。

※※※

さて、”動”と”静”、さらに”男のケース”と”女のケース”両極にある対策を選んでみました。
このほかにも熊に関するエピソードはあるものの、話が大げさで現実離れしているので、この2話を選定しています。

最近の熊害事件で、クマをナイフで刺して撃退したケースや、70歳代のお年寄りが雑草用のハサミで撃退したという事件があり、男性の場合は『遠野物語』四十三話が有効なケースもあるのかなぁ、と思います。
また、一説には「うつ伏せになって首を押さえながらクマをやり過ごす」というのもあり、それは『遠野物語拾遺』二百九話に近いのでしょうか。

当然ではありますが、よく言われる「背を向けず、正面を向いたまま、ゆっくり後ずさる」が通用しない場合の対応です。
例に挙げた、刃物で対抗した実際の事件も、遠野物語のケースも、通常の対策をとる余裕もなく襲いかかってきた場合の、”最終手段”となります。

「背を向けず、正面を向いたまま、ゆっくり後ずさる」というのは、ネットでもよく言われています。
「背を向けたら、クマの習性で襲ってくる」とも。
はいはい、知ってるって。それから? という感じなのですが、たいてい、それで終了、なのです。

ネット民の論法は机上の空論で通り一遍等、また深堀されておらず、対策もランキングやクイズ形式など、生命を守る事柄にも関わらずエンタメ的薄っぺらな表現で参考になりません。大事な部分が抜け落ちています。「んなコトわかってる」と、突っ込みたくなる内容がほとんど。
エンタメ要素を入れるのは興味を持ってもらうため、なのでしょうが、ふざけた表現に興味をもたれたとしても、それは、”本気度の低い興味”でしかありません。エンタメであればあるほど、本気度も下がっていくのは、人間の心理として当たり前。
つまり、実際の対応に結びつくとは思いません。PVのアップに結びつくとは思いますが。


大事な部分は、もっと細かいことです。

ちなみに、僕がクマに遭遇したときもクマに正面を向けたまま、後ずさりました。
クマがかなり遠ざかった後、僕は動き出しました。

『背を向けず、正面を向いたまま、ゆっくり後ずさる』について、細かいけれど、重要な注意。
・クマが背をむけてから、後ずさりましょう。
・こちらから引いてはいけません。
この対策の本質は「人間の方が強いと圧力(虚勢ですけど)をかけ、熊に警戒してもらう」です。
この時点で襲ってきたクマには、前述の”最終手段”、刃物で対抗が必要。もしくはクマスプレーというような、クマにダメージを与える方法をとらざるをえません。しかし、5mの距離で襲われてスプレーというのは、間に合わないとも思えます。その時点で最速でダメージを与える手段を、一瞬のうちに選択せねばならないでしょう。

しかしそれ以前に、5mの距離でクマと出くわした状態で、”正面を向いたまま引かない”というのは、かなり勇気が必要です。正直、個人的には、東日本大震災のときよりも、恐怖感がありました。

では、どうすれば勇気を出して『正面を向いたまま』でいられるのか。
それは、前述の『”最終手段”を持っている』ことです。

僕は、熊よけの鈴が鳴らないよう、左手で押さえながら、右手でビクトリノックスを取り出していました。ビクトリノックスとはキャンプ用の五徳ナイフのこと。
五徳ナイフはいろいろありますが、剛性からすると、やはりビクトリノックスがいいです。僕のビクトリノックスはもう25年以上も使っていて未だ現役なので、かなり丈夫です。
「ナイフなんて訓練しないと使えない」また、「クマには通用しない」というような意見もありますが、それもネット民の”机上の空論”なのです。

「いざとなったら刺してやろう」という気持ちと、ビクトリノックスという最終手段があるからこそ、わずかでも余裕が生まれ、それが勇気に直結し、クマと正面で向き合っていられるのです。
その結果、クマが去ってゆけば、その”最終手段”は使わないで済むわけです。

もちろん本格的な登山であればピッケルでもしいでしょうし、登山用ストックでもいいかと思いますが、ストックの場合は先端のカバーを外す手間があります。熊よけスプレーもそうですが、準備する”ひと手間”の時間さえ惜しい状況なので、素早く使用できる”最終手段”を、ケースバイケースで用意しておくことが、クマと正面で向き合うときの勇気、に繋がります。


これで『背を向けず、正面を向いたまま』についての考察は終わりです。次に『ゆっくり後ずさる』について。
これはかなり注意が必要です。
・後ずさる際、チラリでいいので、背後の足元を確認する。
これ、大事です。登山道は岩あり、ゴロタ石あり、坂道あり、登山道を横切るように木の根が這っていたり、穴があったりと、転ぶ可能性が高いです。しかもこの場合、後ろ向きに歩くのです。さらに、意識は前方のクマに集中して、登山道に注意が行き届かない状況になっています。

「背後を確認だと? いやいや、背を向けず、正面を向いたままじゃないのか!」という意見もあるかと思います。
詳細に言うと、クマが背を向けてから、そのまま後ずさるのではなく、一瞬だけ背後を見ましょう。
・振り返ってはダメ。チラッと確認して、またすぐ正面(クマの方)に向き直る。その回数も最小限にしてください。
もしそこでコケたら、クマに刺激を与えることになり、また人が倒れた様子がクマから見て小さくなり、弱いと判断されて、襲いかかってくる可能性もあります。
実際、転んだときに襲いかかってきた事件も発生しています。
後ずさるたびに、背後を確認してください。襲われずとも、転んでケガをする場合もあります。
くれぐれも、”チラッ”と見てすぐ正面、です。

恥ずかしいのですが、このとき、僕はクマが完全に遠ざかったところで動き出し、背後の確認が不十分でコケました。登山でコケたのは、後にも先にもこのときだけです。登山道を走ってもコケたことなどありません。
クマが遠ざかったあとなので、本当によかったと思いました。


それと、これもまた細かいのですが、
・クマと出会ってしまったら、熊よけの鈴を鳴らすのはやめましょう。
僕は咄嗟に左手で熊よけの鈴を手で押さえ、鳴らさないようにしました。
動物は得てして人間より耳がいいです。
・つまり、終始無言でいることも大切。
クマには、わたしたちが聞いている音よりも、大きな音で聞こえています。
遠くで鈴が鳴っていれば警戒してくれますが、5mの距離で鳴ったら刺激する危険性があります。

この二週間後、高校生の男女グループが僕と同じ山、同じ場所で、熊に襲われてケガをしたというニュースが流れました。
もちろん、僕が出会った熊とは別の個体だったかもしれません。
ただ、「高校生の男女グループ」というのが引っかかります。
至近距離で遭遇し、もし全員で騒いだら、女子が叫んだら、背を向けたら、鈴を全員で鳴らしまくったら……いまだに、嫌な予感が消えません。
そこで、またまた細かいのですが、
・集団で登山する場合、”クマに出会ったらどのように行動するか”の認識をあわせることが必要。

僕は単独登山だったので、冷静な動きができましたが、正直、複数だったらパーティ全員の咄嗟の行動を制御できるのか自信がありません。

そこで、これは細かい注意というより、なかなか”書きにくい”注意点ではあるのですが、
・クマ対策が可能なメンバーを選んで登山する。特に、咄嗟の場合に大声、金切り声を上げるタイプの人は避ける。
・そうでなければ、クマの出ない山に行く。
それを言っちゃぁおしまいよ、という感じですが、僕が行った山はツキノワグマの密度が高い場所で、計三回ほど見ています。このような場所では、人間側のメンバーを選ぶのも、事故の未然防止のためには止むを得ない、かと思います。

最後に、クマが去った”その後”です。
もちろん、クマが去った方向に進む人は少ないと思います。
僕は即座に下山しました。
遭遇した場所から遠ざかる際に、「まだクマがいるのではないか」などと考え、確認するため振り返ることもあるかと思います。
・そのとき、立ち止まってから振り返りましょう。
歩きながら振り返ると、これもコケます。
登山しない人にはイメージしにくいかと思いますが、例えるなら、ホラー映画で、オバケに最初に襲われる女の子が、キャーキャー言いながら走って逃げ、振り返りつつ、最後にコケてやられてしまう……
そんなシーンはホラー映画の定番ですが、登山道を全力で走りながら振り返ると、ホントにコケるので、気をつけましょう。

さて、これらの細かいことが出来て初めて「背を向けず、正面を向いたまま、ゆっくり後ずさる」が、有効なクマ対策になるのです。



考察を重ねると、時間的余裕が無い危急時のクマ襲撃対策、つまり”最終手段”というものは、昔から大きくは変わらないような気がします。
しかし、『遠野物語』の人間の熊が、獣のクマに突如抱きつく……という話は想定外でした。
しかも、人間からの先制攻撃ですよ。
もしクマが複数いたら、ほかのクマにやられちゃいますね。


これから秋と冬の境目で、クマの食いだめも盛りを迎えます。
さらに、冬になっても冬眠しないクマもいるのだとか。

多少なりとも、登山のときの参考になればと思います。

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