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パリ旅2020③会いたい人がいる街


パリを訪れる理由のひとつは会いたい人がいるからだ。

正確には、パリ郊外。メトロに乗って、30分くらいのところに、Jさんのお家がある。

Jさんご夫妻との出会いは、15年前、オーストラリアにある「世界の中心」ウルルを旅したときのことだ。

現地では、滞在施設の数は限られているし、多くの旅行客がオプショナルツアーを選んで昼に夜にあちこち巡ったり食事をしたりするので、数日もいれば、たびたび顔を合わせる“馴染みの人”がいたりして、Jさんご夫妻とわたしたち(現オット)もそんな感じだった。

移動中の車内で、食事会場で、学生時代に(第二外国語だったけど)ちょっと真面目に勉強していたフランス語で楽しげに会話する彼女たちを近くに感じて、社会人となりその響きに飢えて(!)いたわたしはどうしてもうずうず、話しかけたい気持ちでいっぱいで、とうとう我慢しきれなくって、声をかけたのがきっかけ。

それって完全に「ナンパ」で、あんまりそういうキャラじゃないと思っていたんだけど、それはそれはとんでもない素敵な出会いで、だからわたしは今でもナンパに始まる出会いというものを心から支持しています(何それ)。

Jさんご夫妻は、わたしの親ほどの年齢で、シドニー在住のお孫さん(息子さんがオーストラリアの方と結婚された)を連れて3人で旅をしていた。このお孫さんが、当時9歳くらいだったのだけれど、英仏バイリンガルでとっても機転の利くぼっちゃんで、彼の橋渡し(通訳)のおかげでわたしたちは同じ時間を楽しみ、お別れ前に住所を交換したりして、長きにわたるお付き合いが始まったのだ。
(彼はずっと彼女たちの最愛で自慢のお孫さんだったけれど、その後、オックスフォード大学に進学して現在はお医者さまのたまごらしい。幼少期からにじみ出るクレバーさは本物だったってわけだなぁと時を経てしみじみ。)

通訳なしではなかなかうまく会話のできないわたしたちだけれど(Jさんの旦那さんのDさんにはいつも「きみはメールだとフランス語上手なんだけどねぇ」と茶化される・・・あのですね、たった数行のメールに何十分もかけてるんですよ、Google先生に頼りながら!!)、たぶん、「たましい」で繋がれる人とは、言葉は必須ではなくって、態度や雰囲気、眼差しで、コミュニケーションができるのだというのを、証明してくれる関係。

それが証拠に、わたしは母を連れてフランスを旅行し、彼女たちの家に宿泊させてもらったこともあるのだけれど、母とJさんは、わたしのどうしようもないつたない通訳を挟んで、それぞれに通じないことばで喋りながらも、お互いの境遇をシェアして涙を流して肩を抱き合っていた・・・恐るべき共感値。

前回の傷心旅行のときにも何泊も泊めてもらったし(夜にパリ市内で食事をして帰りが遅くなるときは、車で最寄りの駅まで迎えに来てくれたり・・・年頃の娘をもつ親が心配してそうするように)、一昨年には息子を連れて会いに行ったりもした。

わたしの人生に突然現れた、フランスのお母さん・お父さん。


だから今回も、会いに行った。


だけど今回は、ちょっと様子がちがった。


半年前からDさんが病気で入院していて、Jさんは毎日お見舞いに出かけ、疲れていた。

おまけにパリ市内は一連のストライキ(Gilets jaunes, 黄色いベスト運動)が続いており、メトロなど公共交通機関の駅の封鎖や間引き運転、早い時間の運転切り上げなど、常にニュースでは注意喚起の字幕が流れている状態で、特に、郊外に延びる路線はその影響が出ていた。
(そう、この頃、旅行者にとっての脅威はコロナではなく、人間同士の思想や条件や地位やそういったものが闘い、その影響が恐怖だった。)

わたし自身、特に予定を決めた旅でなかったし、Jさんも、そんな状態だったので「パリに着いたら知らせて、また相談しましょう」なんて言いながら、到着から数日も思うような連絡を取りあえずにいて・・・

それでも、帰国の2日前の朝、「今日は病院に行くのをやめたから、時間はある。でも疲れているから、市内には行かれない。もしこちら(自宅)まで来られるなら、会いたいけれど、今日は電車も止まるような報道もあるし、無理しないで。」というコンタクトにて、わたしも交通状況を気にして少し悩んだのだけれど、やっぱり会いに行くことにした。


Jさんの家の最寄りの駅で、待ち合わせをした。


久しぶりに会ったその姿が、やっぱり少し歳を取っていて、そして疲れ、寂しそうな表情だったので、胸がきゅうっと締め付けられた。帰省先でしばらくぶりの母に会った時のような、そんな切なさだ。

静かにそっと抱き合って、腕を組んで、家までの道を歩いた。

ご家族でずっと暮らしていた街の、今はみんな大人になったお子さんたちが通っていた小学校の隣を抜けて、時折会うご近所さんに挨拶を交わしながら(みなさん、旦那さんの入院を心配して声をかけ、ハグしていた)。

彼女の健康を、旦那さんの容態を、聴きながら(リスニングの方が易しい)、わたしのひどいフランス語で(スピーキングは本当にひどい)、共感や労いを少しでももっている感情そのままに伝えられていることを祈りながら、一生懸命話した。

本当のところは、どれだけ伝えられたのかわからないけれど・・・


それでも、家に着くと、アペリティフ。


炭酸水と一緒に、ナッツをつまんで、わたしのフライトや、ここ数日のパリでの出来事、日本にいる家族の話。

「簡単なもので恥ずかしいわ」と言いながら、用意してくれていた遅めのお昼ごはんを、ちゃんとサラダから、メインはチキン(そしてわたしが行く時は決まってライスをつけてくれる。日本人はライスが好きでしょ、と)、デザート(キャラメルプリン)とチーズを、一緒に食べた。

その後、やはり手作りのクッキーをお供に、お茶を飲んだ。

ワインは、飲まなかった。
Dさんは、お酒が好きだから、彼がいればきっと、アペリティフはシャンパンだったし、ワインも飲んだと思う。お昼だろうが、なんだろうが。

作ったもののレシピを聞くと、生き生きと話すのは、変わっていなかった。
食事を大切にしているのも、お見舞いやら何やらで忙しいん中にあっても、ちょこちょこと、焼き菓子なんかを用意して缶に入れておいてあるのも。

料理をして、それを喜んでくれる人と一緒に食べる。
食べながら、いろんな話をする。

ありふれた日常。

それを、規則正しく、大切にしてきた人は、そんな日常が突然なくなってしまったら、きっとものすごく寂しいと思う。

しかも、Jさんご夫妻は、50年近くも一緒に暮らしてきたカップルだから、なおさらだと思う。

あのソファに彼が座っていたことを、思い出すわ・・・
と、言いながら、ため息をつく彼女の人生を、
わたしはほとんど知らないのだけれど、
ありふれたようでいて、とてもオリジナルで、なんだか小説や映画のようで、到底想像できないや。

だから、キッチン脇のテーブルで、今日はわたしとふたり食事をしながら(夫婦だけの食事は、ダイニングでなくキッチンで取る)、時折、塩を取ったり、ソースを火にかけたりするために席を立つ彼女の後ろ姿は、やはり物語レベルで、絵画のような、静かに情緒的なものだった。

彼女の好きな赤がアクセントの室内と、ふわっとしたブロンドの、歳を重ねた女性の後ろ姿。


人は必ず老いるし、いつか必ず別れる。

現実のような、まだ現実でないような。

わたしはそれを受け入れる強さを持っているかな・・・・・・・・・
自分の、そして、大切な人(たち)の。


帰りの電車が心配だったのであまり長居はできなかったのだけど、たぶん、側から見たら「言語レベルでは十分な会話にはなっていないおしゃべり」を散々として、願わくば、Jさんが少しでも元気になった・・・らよかったと思いながら、最後は笑顔で、作り置きのクッキーをビニール袋いっぱいに入れてくれて(「明日の朝ごはんにしたらいいのよ!」・・・実家の母と、一緒)、駅前のスーパーであれやこれやとチョコレートやキャラメルソースやらを買ってくれて(帰りにやたらお土産を持たせようとするのも、万国共通の「母らしさ」なんだろうか)、何度もハグをして、お別れ。


次に会えるのはいつかななんて、その時はあまり考えなかったんだけど。


会いに行って、本当によかったと思っている。

こんな世界になってしまって、次はいつ、会えるか、ちょっとわからなくなってしまった。


そうこうしている間にも、わたしたちはどんどん歳を取るのだ。


そもそも出会えたことが奇跡だったんだとして。
そういう人と、会いたい時、会える時に、会う。
そのことの大切さを、今は余計に感じる。痛いほどに思う。


次、海外に出かけられるチャンスは、一体いつ来るかな。
そうしたら、わたしはまた、彼女に会いに行きたい!


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